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司法改革 裁判の実質的公開こそ本質
弁護士・弁理士 升永 英俊 (ますなが・ひでとし)
朝日2002/09/04朝刊オピニオン面 私の視点
uploaded 2002/09/04
司法制度改革の焦点は、ロースクール(法科大学院)の設置問題に絞られている感がある。しかし、法廷が法律学の英知を尽くした正義の格闘の場となり得るのか、という最も重要な論点が改革論議で積み残されたままになっていることに私は疑問を持つ。
判決は時として判例となり、法となること、すなわち立法機能を営んでいることに注目しなければならない。裁判官はキャリアシステムにより採用されるため、判例は先例としてことのほか重みをもつ。
他方で東京地裁では、1人の裁判官が200〜300件の事件を抱えることが珍しくないという現実がある。そうした現状では、判決が時として立法機能を営むことを正当化できるだけの時間を、裁判官が一つひとつの事件に割り当てることは困難であろう。
判例を含む法規範は国民を法的に拘束するが、その立法行為を正当化する事由は民主的手続きにより法律を制定することである。
しかしながら、国民の間に生じ得るほぼ無数の多様な紛争をさばくすべての法規範を、国会による成文法のみによってカバーすることは不可能である。ここにも、裁判体を構成する裁判宮が、判決によって法律を解釈するという形で法規範を創造せざるを得ない必然性がある。
それでは、裁判官は民主的手続きを経てその職に就いたかというと、答えは否である。裁判官は司法試験に合格し、実質的に最高裁により裁判官として採用されたにすぎない。 民主的手続きで選任されたわけでもない裁判官が、法規範の創造にかかわり得る正当な事由は何か。
それは@裁判上の議論が実質的に公開されA原告・被告が正義を背にして法律学の最高レベルにおける主張を尽くしB裁判官も原告・被告の主張に真正面から取り組んで、正義に貫かれた法律学の最高レベルの説得力ある法理論によって判決の結論に至りC結論に至った論理の過程を具体的に判決書に記載しDその結論と結論に至った法理論が国民の批判にさらされること、に求めざるを得ない。
つまり、裁判は公開の場での、あくまでも正義を座標軸とし、最高レベルの法的英知を尽くした原告、被告、裁判官3者間の格闘技でなければならないのだ。
確かに、現在の民事法廷は形式的には公開されているといえようが、問題は現状の公開の程度が、国民の批判の対象となり得るレベルにまで至っているとは言い難いところにある。非公開が良い結果を生まないのは言うまでもない。
民事法廷での口頭弁論は原則として、原告・被告の弁論が口頭でなされるわけではなく、両当事者の代理人が準備書面通り陳述する旨を口上するだけである。したがって、法廷の傍聴席からは、裁判での両当事者の議論の内容は不明だ。
原則的には誰でも記録を裁判所で閲覧できるが、コピーを取ることさえ禁止されている。そして、当事者の主張は、裁判所の手によって判決書中に数n程度の範囲で要約されるにすぎない。これでは、原告、被告、裁判官の間でなされる議論の公開が十分なされているとは言えない。
立法機能にかかわりかねない重要裁判については、法廷での議論を公開することにより、裁判官に批判に耐え得る正義にかなった法的判断をする動機付けを与え、かつ国民に判決批判の対象を提供することが肝要である。法廷での議論を実質的に公開すべきか否か、及び裁判官の大幅増員という問題こそが司法改革の本質なのだ。