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石原明(いしはら・あきら 神戸学院大学法学部教授)
日本の医学界における近時の動向
『性同一性障害と法律』169〜173頁(晃洋書房・2001年5月10日)
uploaded 2002/02/09
(引用者注・リンクは引用者による)
一 埼玉医科大学倫理委員会の答申
(1)埼玉医科大学には、一九九五年の秋頃に女性から男性への性同一性障害に悩む複数の患者が、同大学形成外科の原科孝雄教授のもとに性転換手術を願い出ていた。同教授は精神分析や男性ホルモンを長期投与し続けるテストなどを行った結果、性転換手術が必要と認めて、その実施を同大学医学部倫理委員会にその実施を申請した。倫理委員会は、この申請については医療および生命倫理の観点から慎重な論議が必要であるとして検討していたが、その審議結果を一九九六年七月二日に、同大学の精神科教授である山内俊雄倫理委員長より公表した。その時の答申内容は、「1、性同一性障害と呼ばれる疾患が存在し、性別違和に悩むひとがいる限り、その悩みを軽減するために医学が手助けをすることは正当なことである。2、外科的性転換手術も性同一性障害の治療の一手段とみなされるが、日本の現状において、ただちに外科的性転換治療を行うにはいまだ環境が整っていないので、以下の手続きを経て環境の整備を行う必要がある。@関連する学会や専門家集団による診断基準の明確化と治療に関するガイドラインの策定。A形成外科、精神科、産婦人科、泌尿器科、小児科、内分泌学の医師など性同一性障害の診断、治療に関係する各領域の専門家からなる医療チームを結成し、適切な対象選定と治療選択、術前術後のケア−のための体制の整備。B性同一性障害に対する理解を深め、外科的性転換治療に伴って生ずる諸問題を解決するための働きかけ、例えば、法律家をまじえた有識者による現実問題の解決への作業、当事者の参加のもとに、一般のひとびとの理解を得るための努力など、3、申請例については、上記の環境整備が行われ、個々の例について、専門家からなる医療チームの判断がなされた後、改めて倫理委員会で審議することとする」というものであった(1)。これは性転換手術という影響の重大な問題と取り組むに当たって、医療側としての慎重で妥当な見解であったものと思われる。そしてこれが世間に公表されると、これまでともすれば興味本位に取り上げることが多かったマスコミも、医学的および社会的問題として、正しくとらえて報道しようとするものが目立つようになってきた。
(2)この答申があった後、日本精神神経学会が性同一性障害の診断と治療のマニュアルを中心とする見解(後述)をまとめて公表したが、こうした経緯を踏まえて埼玉医科大学では倫理委員会の審議を再開し、同大学ジェンダークリニック委員会が改めて提出した性転換手術実施の申請に対して、一九九八年五月一二日に、一定の条件をつけた上で手術実施を承認する答申を公表した。その条件とは、患者を精神的に支える態勢の充実など手術後の管理や支援をより徹底させること、というものである。なお同時に山内委員長談話が表明されたが、その中では「手術の法的問題については法曹界がどう判断するかわからないが、申請は学会の指針に沿って順序立てた手続きがとられている。戸籍の性別変更などについては、社会秩序の問題ともからみ、そう簡単には解決しないであろうが、しかしそれらの問題が全てクリアーされるまで事を進めないというのもどうであろうか。こうした事例が積み重なれば、法のあり方も問われ直すであろう」ということも述べられた(2)。
二 日本精神神経学会の動き
(1)埼玉医科大学倫理委員会の最初の答申が出ると、日本精神神経学会はいち早くそれを受けて、一九九六年九月二一日に学会理事会のもとに「性同一性障害に関する特別委員会」を設置して、主としてその診断基準の明確化と治療に関するガイドラインを策定すべく審議に入った。そしてその審議を重ねた結果、一九九七年五月二八日にその基本的事項を示して、同学会理事長に答申し併せて提言をも行った。その内容の骨子は次のようである(3)。先ず、性同一性障害を有する者は単に性的違和感に悩むだけでなく、さまざまな医学的、心理的、社会的、家庭的ならびに経済的問題を抱えていることが多いため、その診断と治療には、多彩な問題に対応できるように関連領域の専門家からなる「医療チーム」を作り、常にチームとして問題を把握し解決するように努めるべきである。そのために精神科医、形成外科医、泌尿器科医、産婦人科医、内分泌専門医、小児科医などの医師のほか、心理士、カウンセラー、ソシアルワーカーなどの参加が必要である。次に「診断のためのガイドライン」については、診断の順序として、先ず@当人の性の自己意識を調査するためその養育歴、生活史、日常生活、人間関係、人格構造、家族関係などを詳細に聴取し、性同一性障害の国際基準をみたしているかなどについて、複数の精神科医が判断し、次いでA当人の生物学的性の決定において、染色体、ホルモン、内性器および外性器、生殖腺の検査を行って、半陰陽などの異常がないことを確認する。そして生物学的性と自己意識が一致しないことが明らかであれば、これを性同一性障害と決定するとした。そして次の「治療のためのガイドライン」については、先ず第一段階としての精神療法、次いで第二段階としてのホルモン療法、そして第三段階としての性転換手術があり、治療にはこうした三つの段階を順次経ることが必要であることを示した。即ち先ず、精神科医や心理士、カウンセラー、ソシアルワーカーにより精神療法を行い、希望する性の選択が揺るぎなく安定したものであることを見極めるとともに、選択した性での一年以上にわたる生活を観察期間として必要としている。そして選択した性で生活することに伴う身体的、心理的、家庭的、社会的困難に対応できる状況にあることが確認されたならばホルモン療法に移行することになるが、この場合にはホルモン療法の手技、効果と限界、起こり得る副作用について十分な説明を行い文書で同意を得る必要があるとともに、当人の年齢が二〇歳以上であることとしている。そうして第二段階までの継続的治療にもかかわらず、その治療では限界があり手術治療が必要と判断されてはじめて、第三段階としての性転換手術という外科的療法を考慮するとしている。その場合にも当人が真執手に手術を望むことはもちろん、家族や親しい人が手術治療に理解を示していることが必要であるとしており、また当人は二〇歳以上であること、としている。またその精神面に対する配慮として、手術の前後を含めて精神科医または心理士が十分な配慮をもって、術前ならびに長期にわたる術後の精神的援助を行うこと、および新しい性としての身のこなしかたなど社会的適応に対して援助をすることの必要性にも言及している。こうしたことが答申の骨子であるが、加えてこれからこの問題に対処するために必要とされる事項が、幾つか提言として示された。即ち、@医師ならびに関連の医療関係者が性に関する問題を正しく理解し、対処することができる能力を身につけること、A国内医療チームを組織化すること、B健康保険の対象疾患として認定するなどの経済的援助を図ること、C法的問題に関する指針を早急に作出すること、である。
(2)このCの法的提言は、つまり医療の側からわれわれ法律の側にボールが投げ返されたわけであるから、われわれにとって重要であり、したがってこの部分はその提言をそのままここに引用させていただく。それによると、「性同一性障害の治療に当たって、母体保護法第二八条の何人も、この法律の規定による場合の外、故なく、生殖を不能にすることを目的として手術又はレントゲン照射を行ってはならない≠ニいう条文との関係が問題とされる。性同一性障害についてこれまで見てきたように、また、埼玉医科大学倫理委員会答申にあるように、性の転換の希望は単なる好き嫌いの問題ではなく、生物学的性(sex)と性の自己認知(gender)の不一致からくる障害であり、ある意味では人間存在の本質に関わる課題でもある。従って選ばれた医療グループにおいて、学問的倫理に裏付けられた綿密にして慎重な検討の上で選択された治療であれば、それは正当なものであり、故なく″sわれる単なる医療操作ではないとみなされる。特に、診断の過程において、中核的性同一性障害とその周辺群とを峻別し、その上で性の転換によって生ずる可能性のある問題を吟味して行うものであれば、個人の苦しみを軽減するだけでなく、個人の生活の質(QOL)を高めるための医療と考えられる。ところで、性の転換にともない、性別や戸籍の変更など、さまざまな法的問題が生じることは当然のことである。このような法的問題が性同一性障害の治療効果を妨げ、生活の質を損なう事もすでに指摘されている通りである。したがって、法曹界はこれらの法的問題について早急に討議を開始し、適切な結論を出すことを要望するものである。これらの問題が解決されてはじめて医療の目的も達せられる事を認識した上で、日本精神神経学会は法的問題の解決を、法務省をはじめ関係省庁にに要望すべきである」というものである。
三 その他
そのほか、最近になって岡山大学でも、岡山県に所在の川崎医科大学と提携して、「岡山大学・川崎医科大学ジェンダークリニック」が開設され、その診断と治療のための「性同一性障害適応判定委員会」が発足し 二〇〇〇年八月一日に第一回の委員会が開催されている。この委員会は八名の医療関係者のほか、医師以外の二人の学外からの委員で構成されている。
また一九九九年以来、性同一性障害の医学的側面に関する研究を中心とした「GID研究会」が創設されて、毎年一回、三月に全国的なシンポジウムが開催されて情報を交換し、また熱心な討義が行なわれている。
こうして医学の分野では、この問題に関して積極的に取り組む体制が、地域的ならびに全国的に次第に広がりつつあるのが、現在の状況である。
(1) 埼玉医科大学倫理委員会「性転換治療の臨床的研究に関する審議経過と答申」埼玉医科大学雑誌第二三巻四号(平成八年一〇月)三二四頁より。
(2) 朝日新聞(埼玉版) 一九九八年五月一三日二七頁より。
(3) 日本精神神経学会・性同一性障害に関する特別委員会公表の「性同一性障害に関する答申と提言」(一九九七年五月)冊子より。