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子どもの権利マニュアル-改訂版子どもの人権救済の手引

日本弁護士連合会編著

『子どもの権利マニュアル−改訂版子どもの人権救済の手引』

(こうち書房・1995年)

last edited 2002/04/23


pp. 13-21

総論

1 子どもの人権に関する基本的な考え方


T

 最近の子どもをめぐる状況を見て、心を痛めない大人はいないだろう。「子どもを大事に」と大人は口をそろえて言うが、子どもをとりまく厳しい状況は、いっこうに改善されないばかりか、ますます悪くなってきている。「子どもの受難」は深まるばかりである。
 このような事態を前にして、さまざまな立場から意見や提言が出され、さらに救済の手がさしのべられているが、それらは事態を改善させるものではなかった。
 もとより、問題の根は現代社会のしくみや現代文化のあり方に存することはいうまでもないが、子どもの人権に関する私たちの考え方や姿勢にも基本的な問題があったこともたしかである。
 本書は、子どもをめぐって日々生起する具体的な問題に法律家の立場からどのように対応し、助言すべきかを述べたものであるが、その根底には子どもを権利の主体と認め、一人の人間として尊重し、人間として扱っていこうという考え方・姿勢が強く貫かれている。いわば、「子どもの人権」を基軸にして、問題解決の筋道を考えようとするものである。

U

子どもを権利の主体と認め、一人の人間として尊重し、人間として扱っていこうという考え方は、子どもの独自性・固有性を大事にし、子どもを子どもとして完成することをめざすものである。
 ルソーはその著『工ミール』において「人は子どもというものを知らない。子どもについて間違った観念を持っている……まずなによりもあなたがたの生徒をもっとよく研究することだ」(今野一雄訳、岩波文庫・上巻18頁)と述べて、子ども・生徒のありように着眼することの必要性を説いたあと、「人生のそれぞれの時期、それぞれの状態にはそれ相応の完成というものがあり、それに固有の成熟というものがある。わたしたちはしばしばできあがった子どもというものを考えてみよう」(同書・上巻271頁)ではないか、たとえば、「10歳ないし12歳の子ども、健康でたくましい、その年齢においては十分に完成している子どもの姿を心に描いてみる」(同書・上巻273頁)ことが大事であることを指摘している。
 このように、子どもは、それ自体独立したものとして、それ自身の完成を自らのうちに内包するものとしてとらえるべきであり、したがって、かけがえのないそれ自体としての価値を持つ「現実態」つまり人間そのものとしてとらえるべきである。
 これは、子どもをその独自性・固有性においてとらえるのではなく、大人を基準としてとらえ未完成の大人にすぎない、とする見方を否定するものである。子どもの独自性・固有性を大事にし、子どもを子どもとして完成し、人間として扱っていこうとする思想こそ、近代人権思想における子どもを人権の主体とみる立場の出発点をなすものである。
 基本的人権は人間であることに基づいて成立する権利であるがゆえに、子どもであっても人間としての権利を享有するのは当然であろう。子どもは、子どもであるがゆえに基本的人権の享有をさまたげられるべき理由は何らなく、逆に子どもであるがゆえに、それにふさわしい方法で基本的人権を享受しうるよう配慮されなければならない。
 このように、子どもを慈恵的な保護の対象・客体としてでなく、基本的人権を享有する主体として承認したうえで、すべての子どもに基本的人権を保障する具体的手だてを考えることが必要である。
 「法廷での弁論においても、行政訴訟においても、子どもは主体であって客体ではないと宣言することは、子どもの個人としての資格にもとづく諸権利を確認することであり、子どもを尊重し、保護しようということであり、同時に、子どもの生活のもつ重みをそこなうまい、子どもを空虚な観念に還元してしまうまいということなのである」(ジャン・シャザル著、清水・霧生訳『子どもの権利』、クセジュ文庫20頁)。

V

 基本的人権とは「人が人間らしく扱われることの憲法的保障である」から、その保障は人間生活のすべての部面にわたらなければならない。とりわけ、子どもは「現在及び将来の国民」としてその成長の過程におけるあらゆる部面において、人権が豊かに保障されることを求めている。
 子どもは、自ら選びながら自分をつくり成長していくためには探求し、学習することが必要であるが、そのためには教育を受ける権利が十分に保障されることが必須の前提となる。憲法26条が保障する「権利としての教育」は、子どもの教育内容への公権力の介入・干渉を排除しながら、他方で子どもの生存権的基本権ともいうべき学習の権利を充足することを積極的に求めるものとして、子どもの権利の中核をなすものである。最高裁判所も旭川学力テスト事件判決(昭和51年5月21目、刑集30巻5号615頁以下)において、「子どもは、その学習要求を充足するための教育を自己に施すことを大人一般に対して要求する権利を有する」ことを認めている。
 子どもの「人間らしく扱われることの憲法的保障」は、さらに、子どもが「個人」として尊重され、一人ひとりが「生命・自由・幸福追求の権利」を有することにはじまり、思想・良心・信教の自由、表現の自由、人身の自由、奴隷的苦役からの自由、プライバシーの権利などの「市民的自由」にまで及び、子どもの人間としての生存・生活の全面にわたる。
 また、子どもはその生存・生活を維持・確立するために国家の積極的行為を要求することができることもうたがいない。
 こうして、子どもの人権は「教育を受ける権利」と人間としての「市民的自由」ならびに社会権によって構成され、豊かな内実が与えられることになる。

W

 子どもはどの子もみな等しく基本的人権を享有している。その子どもが、年齢が低いからとか、障害を持っているからとか、保護を要するからという理由で基本的人権の享有をさまたげられてよいはずはない。
 今日子どもの権利を保障するために、親をはじめとして学校・地域社会・国などのさまざまな機関・団体がこれに関与しているが、これらは子どもの権利保障という視点からの制約を受け、子どもの権利を中心として位置づけられなければならない。
 親は「子どもに対する自然的関係により、子どもの将来に対して最も深い関心をもち、かつ、配慮をすべき立場にあるものとして」子どもを養育し、教育する第一次的責任を負っているが、親は子どもの権利を保護し、これを実効あるものとするために、この責務を十全に果たすことが強く期待されている。親は、子どもに対しては子どもの権利を尊重し、子どもの自己決定を大事にすべきであるが、子どもの権利を制約し、侵害しようとするものに対しては子どもと一体となって侵害を除去し、権利を保障することにつとめる責務がある。
 子どもの基本的人権・自由は、「子どもの学習する権利に対応し、その充足をはかる」ために設けられた学校とそこでの教育過程においても、十分に尊重されなければならない。最高裁も旭川学カテスト事件判決において、「個人の基本的自由を認め、その人格の独立を国政上尊重すべきものとしている憲法の下においては、子どもが自由かつ独立の人格として成長することを妨げるような……内容の教育を施すことを強制するようなことは、憲法26条、13条の規定上からも許されない」としている。
 アメリカの連邦最高裁判所も1969年いわゆるティンカー判決において、「われわれの憲法の下では、生徒は学校外におけると同様学校内においても『人』(person)である。」生徒は憲法上の権利を「校門のところでうち捨ててくるのではない」ことを明らかにしている(Tinker v. Des Moines Independent Community School District 393, U.S. 503. 1969)。
 そもそも教師は親の信託を受けて教育する「権限」を有する法的機関であり、この教師の教育権限は子ども・親との関係では一定の制限を受け、あくまでも子どもの教育を受ける権利を充足し、子どもの基本的自由を保障すべき制約に服しているのである。
 このようにして、子どもの人間としての人格の尊重・基本的自由の保障は、学校における教育−学習過程の必須の前提となっている。学校こそ子どもの基本的人権・自由が大事にされ、尊重される場でなければならない。
 1948年世界人権宣言は、26条1項において「何人も教育を受ける権利を有する」としたあと、2項で「教育は、人格の完全な発展並びに人権及び基本的自由の尊重の強化を目的としなければならない」として、権利としての教育が子どもの人格の尊重・基本的自由をめざし、これをふまえなければならないことを明らかにしている。この理は、1966年に採択された国際人権規約(わが国は1979年に批准)のA規約(「経済的、社会的及び文化的権利に関する国際規約)13条においても、すべての者の権利として認められた教育が「人格の完成及び人格の尊厳についての意識の十分な発達を指向し並びに人権及び基本的自由の尊重を強化すべき」であると定められて、確認されている。

X

 子どもの独自性・固有性を大事にするとは、子どもが成長していく過程、その節々を大切にし、それぞれの過程・段階での子どもの生活や活動の充実をはかることであるが、それは何よりも自ら選びながら成長していく子ども自身の自己選択・決定を尊重し、大事にすることを意味する。このように、子どもの自己決定権を認め、これをあたうかぎり尊重し、保障していこうとする姿勢が大切であり、これなくして子どもの人権を子ども自身のものとして保障することはむずかしい。
 むろん、子どもの選択・決定には、子どもの年齢、経験、学習、環境などさまざまの要因によって幅があり、これを支える親や教師などの適切な助けが必要なことも少なくないであろう。また、子どもの選択・決定のなかには、時として誤りや、まわり道、行きどまりと見えるものもあるだろう。子どもの自己決定権を尊重するとは、子どもの選択・決定がはらむこうした特質を十分ふまえたうえでなおこれを尊重し、大事にしようとする姿勢である。
 そのうえで子どもの自己決定権の範囲・程度などについては、問題の具体的脈絡と子ども自身の事情に応じたきめ細かい検討がなされなければならない。本書は不十分ながらそうした試みの一端を示すものである。

Y

 本書の初版において、われわれは、子どもの独自性と固有性に基づいて、子どもも人権の主体として市民的な自由や社会権などの基本的な権利を享有しており、しかも、子どもはこれらの権利を自ら選択して行使することができると考えるべきであり、このような子どもの自己決定権をあたうかぎり尊重し、保障していこうとする姿勢をおとなや社会が持つことが大切であることを指摘した。また、親は、子どもの権利を尊重し、子どもの自己決定を大事にすべきであるが、子どもの権利を制約し侵害しようとするものに対しては、権利を保障することに努める責務があることも強調した。
 子どもの人権に関するわれわれの基本的な考え方は、1989年11月20日の第44回国連総会で採択された「子ども(児童)の権利条約」Convention on the Rights of the Child)の基調をなす考え方にも沿うものであり、むしろ、国際的にも広く承認された考え方である、といってよいだろう。
 1900年に「20世紀は、子どもの世紀である」と喝破したのは、スウェーデンの婦人運動家エレン・ケイであるが、彼女の予言は、90年後に−−二つの世界大戦において多数の子どもたちが犠牲となった、という痛苦の反省を経て−−すべての子どもたちのための国際条約のかたちで漸く実現された。条約は、人間すべてが必ず通過する「子ども期」における人間としての権利の総合的な保障をめざして、法的拘束力を有する国際文書としてまとめられたものであり、子どもたちの国際的な権利章典と呼ぶにふさわしい内容となっている。
 子どもの権利条約は、子どもの「人格の完全なかつ調和のとれた発達」(前文)に向けて、「子どもが……国際連合憲章において宣明された理想の精神並びに平和、尊厳、寛容、自由、平等及び連帯の精神に従って育てられるべきである」(前文)ことを宣言し、子どもの権利が「子どもの最善の利益」(the best interest of the child)を考慮して(9条、18条、20条、37条、40条など)、子どもをとりまくあらゆる場において実現されることを求めている(3条)。

Z

 そのために、条約は第一に、子どもが保護の対象・客体であるだけでなく、何よりもまず権利の主体であり、しかもその権利を子ども自らが行使することができるとの立場に立っている。条約を貫くこの基本的思想は、条約の随所におらわれているが、とりわけ、条約12条が「自己の意見を形成する能力のある子どもは、自己に影響を及ぼすすべての事項について自由に自己の意見を表明する権利」があることを認めて、子どもに意見表明の権利(right to express those views freely)を保障している点に端的にあらわれている。今後は、子どもにかかわるさまざまな事柄・場において子ども自身を参加させ、その意見を表明する機会を与えて、これを十分に聴取して決定しなければならないことになる。また、子どもがこれを表明することができない場合には、親や代理人を立ちあわせて、その意見を聴取する機会が与えられなければならないのである(12条2項)。子どもの意見表明権は、子ども自身の意見表明の場・機会の保障あるいは親や代理人による意見の聴取の機会の保障という手続的権利の性格をも持つものとして重視されなければならないが、条約はこれに引き続いて、子どもの表現の自由(13条)、思想・良心・信教の自由(14条)、集会・結社の自由(15条)、プライバシーの権利(16条)などの市民的自由をその手立ても含めて正面から保障している。
 本書こおいては、子どもをめぐるさまざまな問題領域において、子どもの意見表明権や市民的自由をどのようにして保障するかを、対象となる事項に即して具体的に検討している。
 条約は第二に、子どもの「人格の完全なかつ調和のとれた発達」のために家庭環境が果たす固有の役割を認め(前文)、家庭の中心である親に「子ども養育及び発達についての第一義的な責任」(the primary responsibility for the upbringing and development)があることを認めたうえで、国に対して親がこの責任を遂行するにあたって親に適当な援助を与えることを求めている(18条)。そして、国は、子どもの権利の行使に対して、親が適当な指示と指導(direction and guidance)を与える責任と権限を尊重するとしている(5条)。
 これは、子どもに一番身近な存在である親に、広い権限を与えるとともに重い責任を負わせることによって、親を子どもの権利保障の中心的な担い手にしようとするものである。親はその権限を行使し責任を果たすにあたっては、「子どもの最善の利益」を中心にしなければならないことはいうまでもない。
 そのうえで、条約は第三に、名前・国籍を得る権利、親を知り養育される権利(7条)、親からの分離の禁止(9条)と家族再会のための出八国の保障(10条)、親による虐待・放任・搾取からの保護(19条)などを定め、さらに障害児の権利(23条)、健康・医療への権利(24条)、社会保障への権利(26条)や子どもが麻薬・向精神薬や性的搾取・虐待などから保護されなければならないこと(33条、34条など)を明らかにするとともに、とくに31条において、子どもは休息・余暇、遊び、レクリェーションなどの権利を有していることをあげるなど、きめ細かく子どもの権利の総合的な保障を図っている。また、少年に対する刑罰や少年司法についても、条約37条と40条において具体的な権利保障がなされているが、これらは前文にも掲記された「少年司法の運用のための国際連合最低基準規則」(北京ルールズ)と相まって、今後の少年司法の具体的な指針を示すものである。本書においても、このような子どもの権利の広がりと深まりをふまえて、多面的な検討がなされるであろう。

[

 このような子どもの権利条約が日本において批准されて発効したのは、1994年5月22日であるが、これにより、日本政府は条約に規定された子どもの権利を国内において実施する義務を負うことになった(4条)。その実施状況は、政府が批准後2年以内に、その後は5年ごとに国連に提出する報告書に記載され、条約の実施監視機関である「子どもの権利委員会」において審査されることになっている(44条)。また、条約は、子どもに関する司法的な救済の場において裁判規範としての性格も持つようになったのである。
 なによりも大切なことは、子どもたちに権利条約の内容と意味を広く知らせることであり(43条)、これにより、はじめて子どもは権利主体として自らその権利を現実に行使することができるようになるのである。
 子どもの権利委員会においては、単に法制度やその運用だけでなく、子どもたちがおかれている現実が具体的にどれだけ変わったのか(how to change a reality)が厳しくテストされ、審査されることになる。
 本書は、具体的な問題領域における法制度のあり方やその解釈を示すだけでなく、多方面の実践的な手立てをも明らかにすることにより、子どもたちをとりまく現実の課題に応えようとこころみたものである。


pp.121-123


各論3 校則

V 校則に対する子どもの権利の各論

1 自分の服装は自分で決める権利

 どのような服装を選択するかはそれぞれの判断であり、また服装は自己表現の手段なので、プライバシーの権利や表現の自由によって保障されている。どのような服装もすべて許されるわけではないが、ニューヨーク市の規則にあるように、「その服装が明らかに危険なものであったり、あるいは学習・教育課程の妨げとなるほど不適切なものである場合以外は、生徒には自分自身の服装を決定する権利がある」。アメリカではジーンズやスラックスなどが問題にされた時期もあるが、そのような服装規制は無効とされている。
 日本では公立中学における「制服」が問題になっているが、校則ではあくまで「標準服」とされている以上、その強制は許されない。したがって私服での通学も当然に認められるが、現実には「生徒指導」によって「違反ズボン」や「違反スカート」と決めつけられ、校門で追い返されたり修学旅行や卒業式への参加を禁止されたりといった異常な事態が各地に生じている。このような制裁は学校教育法が義務教育で禁止している停学処分に他ならず、許されない。この点は「ボンタン」と呼ばれる「変型学生服」による通学の場合も例外ではない。
 また学校外での外出にまで制服を義務づけている校則も多いが、論外というべきである。
 なお無償による教育の権利に基づき、ニューヨーク市教育委員会のガイドラインは「学校は生徒に対し体操服の購入を義務づけてはならない」と明記しているが、これは日本における「制服」の問題にも妥当する。
 これを正面から争った事件があるが、千葉地裁判決(平成元年3月13日)は、「制服」の注文は任意であって強制ではないという形式的な理由で棄却している。
 また標準服を着用する義務がないことの確認を求めた事件につき、京都地裁判決(昭和61年7月10日 判例地方自治31号)は、標準服を着用しないことによる不利益性がきわめて低く、事前の救済を認めないことを著しく不相当とする特段の事情がないから法律上の利益がなく不適法として却下している。

2 自分の髪型は自分できめる権利

 校則で男子は「丸刈り」、女子は「おかっぱ」と決めている公立中学校もまだ少なくない。
 頭髪は身体の一部であり、しかも衣服と違って学校内外で区別することができない。また髪型は服装以上に文化の選択という側面が強いので、プライバシーの権利や表現の自由による保障を受けている。
 アメリカでも公立学校での頭髪規制に関して意見の対立があるが、かなりの州で生徒たちに髪型を決める権利を認めている。判例も「校則と正当な教育目的に合理的な関連があるか、あるいは生徒の髪の長さが学校の活動に実質な妨害をもたらしていることを学校が示さないかぎりは、学校はその頭髪を規制してはならない」と明示している。
 日本では男子生徒に丸刈りを強制する校則の有効性が争われている。
 @ 1958年に水戸地方法務局が長髪を禁止した茨城県立高校の校則に関して、茨城県教育委員会に対し是正を勧告した。
 A 1974年には、日本弁護士連合会が丸刈りを強制した埼玉県大井中学校に対し是正勧告、同中学校は勧告を直ちに受け八れ、校則を改正した。
 B 熊本県玉東中学丸刈強制違憲訴訟事件(熊本地判昭60・11・13)
   判決は校則違反に対し強制的に髪を切ったり、内申書に不利益記載をしていないので校則が著しく不合理だとは断定できないと判示した。しかし同時に、丸刈り校則を正当化する学校側の言い分−「中学生にふさわしい髪型である」「スポーツに最適である」「清潔感が保てる」「生徒の非行が防止される」といった主張−をすべて否定していることは注目すべきである。
 「丸刈り」「おかっぱ」まではいかなくとも、男子は「前髪は眉、後ろ髪はえり、横は耳にかからないように」とか、女子では「肩にかからないようにし、それ以上になった場合はむすぶ」という規制のある学校はきわめて多いし、パーマ・毛染め・脱色を禁止している学校が多い。このような校則に合理性を認めるか否かはそれぞれの価値観によって異なるが、一般に、パーマ・毛染め・脱色などを不適切な髪型として禁止する校則を支持する声が多いと思われる。しかしその一方的な強制が許されないことは、熊本地裁判決の趣旨からも明らかである。


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