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Trans News > 新着情報 > 2003/02 2003/03

日本海新聞 NEWS

真実の性を求めて 《性同一性障害者の手記》
(日本海新聞朝刊 2003/02/13〜27 12回連載)

話題を追う 県内に広がる波紋 性同一性障害 連載手記へ読者の声 / 東風西風
(日本海新聞朝刊 2003/03/14)


last updated 2003/03/14

(斜字・ハイパーリンクは引用者)


1

性の違和感に重い鍵 「パンドラの箱」 2/13


 三十歳で起業した店も四年目を迎え、順調に売り上げを伸ばしていた。仕事が忙しい時と暇な時があるが、一人で店をみなくてはいけないので、外出することが難しかった。

 そこで、仕事にも活用できる中古のパソコンを友達から購入した。最初は店の会計をする目的だっただが、当時流行していた「パソコン通信」というネットを使い、友達とのメール交換をしてみたいと思った。モデムを購入しパソコン通信へ接続する生活が始まった…。

 それが、「パンドラの箱」を開けた瞬間だった。

   ◇          ◇

 パソコン通信ガイドを読んでみると、ネットのサーバーの中に各種のフォーラムがあり、興味のある事柄に関する話題に日本各地の会員が書き込みをするための「掲示板」というものがあった。

 最初はさまざまなフォーラムを読んでみたのだが、そのうちどうしても気になる掲示板があり、そこへ毎日書き込みをするようになっていた。

 その掲示板の名は「ジェンダーの迷路」と記憶している。

 文字通り、そこに迷い込むと抜けられない迷路で、自分の肉体の性別と、自分の自覚する性別とのギャップに悩み、苦しむ人々が集まる掲示板だった。

 その時は、まさか自分が性別適合手術を受けるまで、この迷路を進み続けることになるとは考えてもみなかった。

   ◇          ◇

 毎日、他の人が書き込んでいる発言を読み、それに対する返事を書き込むことが日課になっていた。

 自分の肉体の性別への違和感や嫌悪感がある人もいれば、ネット上だけ反対の性別で書き込みをして楽しんでいる人もいて、どこまでが真実で、どこまでが虚構なのか、わからなくなっていた。

 そんな折り、OFF会を神戸で開くことになった。たった5人の集まりだったが、その中に一人だけ、本当に肉体とは反対の性別にしか見えない人がいた。そんな生き方を現実にしている人がいることが、その時のわたしにとっては衝撃的だった。

 彼女以外の人は、ネットでは女性だと感じたが、現実の姿は普通の男性で、失望を隠せなかった。

 OFF会以降、わたしの当面の目標は彼女だった。彼女が女性ホルモンを服用しているのを知り、どうしてもホルモン剤が欲しくて仕方なかった。

 洋服も、それまでのようなユニセックスのものではなく、通信販売を使って、徐々に女性用の服に変わっていった。

 そんな日々が続き、周囲の人々にも「様子が変だ」と悟られまでに変ぼうしていった。

   ◇          ◇

 結婚は二十八歳の時にしていた。職場で仲良くなった女性が、わたしが独り暮らしを始めたアパートに家出をして来た。

 子供が欲しかった。そうなれば、もっと男として生きなくてはという気持ちになれると思った。

 彼女には、過去に自分の性に悩んだことは告げていなかった。

 やがて妊娠した彼女がうらやましかった。できることなら、自分が代わって産みたいと思った。つわりがきつく、家事はわたしがこなした。

 子供が生まれた。父親として、接することができない自分がいた。まるで母親が二人いるような感じだった。

 それでも、責任を取らなくてはいけないという現実が「男として生きなくては」という気持ちにさせるのだった。

 社会に出るために封印をした「性の違和感」に、さらに重い鍵をかけたつもりだった。あの「パンドラの箱」を開けるまでは…。

   ◇          ◇

 この手記は、鳥取市在住の当事者(四○)が身体と心の性の不一致に悩み、性別適合手術をへて男性から女性に生まれ変わった経緯などをつづったものです。


日本海新聞 東風西風 2003年2月14日
http://www.nnn.co.jp/column/tofusefu0302.html

 ▽…本紙家庭面できのうから「性同一性障害者の手記」を連載している。性別適合手術を受けた鳥取市内の女性が役所などの好奇の目にさらされ、人権保護を求めて一人立ち上がった経緯が記されている。連載は十二回。手術の模様、新しい伴りょとの出会い、新聞での人権保護の訴え。苦悩と希望の半生が赤裸々につづられている。彼女の目標は「戸籍の性別変更」を可能にする法律改正。国を動かそうという熱い思いが伝わってくる。(森原)

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
2

「ホルモン服用」 男性の身からの解放 2/14


 フォーラムのOFF会で彼女に会ってから、一日も早く、彼女のようになりたいと思う日が続いていた。彼女のつてで自分の購入した女性ホルモン剤を分けてくれる人に会うことができた。

 もうそのころには、封印をして鍵をかけた「性の違和感」を、自らの手で解消することに決めていたのかもしれない。

 それが、今まで築いてきた家庭を破壊することになることは、十分わかっているつもりだった。

 何度も思いとどまろうとした。肩まで伸びた髪を切り上げてみたが、それでも女性とみられた。もうどうにもならないのなら、いっそ自殺しようかと考える日が続いた。

 しかし、自殺するくらいなら、あえてこの険しい道を歩んでみようと決心した。ある意味で「吹っ切れた」。

 聞きかじりの知識だけで、勝手にホルモン剤の服用量を決めていた。徐々に男性的性欲が消滅していくことが、とてもうれしかった。男性の体から解放されていく自分がいた。

   ◇          ◇

 自分の経営する店とはいえ、顧客や周囲の人々もわたしの変ぼうに気が付き始めていた。

 からかう人、露骨に嘲笑(ちょうしょう)する人、正直に話をすると怒り出す人もいた。わたしの家族のことを心配して「悪趣味は早くやめろ」と忠告する人もいた。

 嫌う人もあれば、そんな生き方を認めてくれる人も出てきた。

 役所に自分の書類もらいに行くと「奥さん、ご主人の書類を請求されるなら、代理人に奥さんのお名前を書いてください」と言われた。

 選挙投票所に行くと、「ご本人ですか?」とけげんな顔をされたので、免許証を見せた。投票所の係官全員が、一挙一投足を見ていた。

 子供と出かけるとき、妻だった人は「恥ずかしい」と言ってついて来なくなった。

 出先では、誰もが母子だと思っていて、子供に「お母さんと一緒で楽しそうね」と話し掛ける人もいたが、子供は「お父さんなのに」と不機嫌になった。

 わたしはそう思われることがうれしかった。

 しかし、そんな子供との時間は、いつまでも続くことはなかった。

 女性ホルモン剤の効果も現れてきていて、乳腺(せん)が発達して胸が張った。気が付いたら、Aカップの胸になっていた。下着にブラジャーが必要になっていた。

 そうなると、それまで抵抗のあった「スカートをはきたい」という気持ちが次第に強くなってきた。

 心が女性であっても、身体が男性のままの状態で女性用の下着やスカートをはくことには抵抗があった。「女装趣味者ではない」。そういう気持ちから、自分の身体に合った洋服を堂々と着たいと思った

   ◇          ◇

 そのころ、パソコン通信から、インターネットに接続することが可能になっていた。

 最初に見つけたのは、地方で入手することが困難だった、女性ホルモン剤を販売している海外の薬局だった。ネットで注文し、クレジットカードで決済すれば、海外から輸入できた。

 その情報があったアメリカのホームページには、性別適合手術(性転換手術)をしている海外の医師たちの情報もあった。

 (鳥取市在住)


3

「夢の翼」 過去をすべて捨てる 2/15


 家庭内での居場所は無くなっていた。

 仕事も忙しく、深夜に帰宅し、シャワーを使うと、一人だけの部屋で眠る日々が続いた。妻だった人とは、家庭内別居を経て本当の別居になっていった。

 家庭の関係が修復不能だと分り、最後の一線を越す決断をする日がやってきた。

 地元の精神科を訪ね歩いた。性同一性障害の診断書が欲しかったのだが、どの医師も「診断出来ない」と窓口で断られた。埼玉医大で、やっと性同一性障害の診療が始まったころだった。

 診断書は無理だったが、距離的にも、手術代も手ごろだと感じたタイの医師に、メールで質問をしてみた。慣れない英語のメールを書き、メールフレンドだった英語教師に添削をしてもらい、医師に事情を説明した。

 診断書がもらえない事情を酌んでもらい、メールで遠隔診断をしてもらうことになった。

 数カ月のメール交換で、わたしの過去、現状を知ってもらい、半年後の手術の予約を取ってもらうことができた。

 十代のころから、絶対にかなうことがないだろうと思っていた夢が、とうとう現実となる日が近付いていた。

   ◇          ◇

 とうとうタイへ旅立つ日がやってきた。初めての海外旅行、それも一人旅。しかも到着したら翌日すぐに手術を受ける。不安だらけの出発だったが、命の心配よりも、夢がかなうことへの期待の方が何倍も大きかった。

 怖いものは無かった。

 出発するまでに、身の回りの物をほとんど捨てた。それまでの写真、子供との思い出までも捨てた。

 自殺では無いが、それまでの人生を捨てるのと同じだと思い、死出の支度をした。

 最後に見た子供の顔は、一生忘れることの出来ない永遠の思いでとなった。

 飛行機は、午前十時に広島空港を離陸するのだが、前日には自分のアパートを出て夜の国道を走った。少しでも、夢に近い場所に近付きたかった。到着した深夜の空港は閉鎖されていた。

 パトロールが回っていたので、空港から少し離れた駐車場で仮眠を取った。眠ろうとしても眠れなかった。

 朝、空港の駐車場が開くとすぐに車を置いた。誰もいない待ち合い室の椅子に座って待った。夢の魔が遠く南国から、夜通し飛んできた。

 心配していた出国も順調に終え、初めての空の旅へ出た。着陸した時、それまでの過去をすべて捨てた。

   ◇          ◇

 到着した南国の小さな飛行場は、空気のにおいが日本とは違っていた。無事に迎えの車に乗り、初めて異国の夜景を見た。ホテルに到着し、翌日の入院に備えて眠った。

 翌朝、病院の迎えが来た。病院のスタッフに日本人女性がいて、彼女がわたしの世話をしてくれた。いろいろな手続きと検査をして、自分の病室に入った。手術の準備が始まっていた。

 手術は翌朝だった。

 全身麻酔で長時間に及ぶ性別適合手術。血栓症や麻酔事故で亡くなる人もある。でも、自殺まで考えた身に何も怖いものは無い。自分で手術台に上がった。

 細い十字架のような台に上がると、両手、両脚をベルトで固定された。まるで張り付けにされたようだった。

 医師がやってくると、麻酔医がチューブに薬を入れた。それで、過去のわたしは本当に絶命した。

 (鳥取市在住)
 (次回掲載は17日付)


4

「新しいわたし」 本当の女性になった 2/17


 性別適合手術が無事に終わり、麻酔からさめたのはICUの部屋だった。

 「Open your eye!」

 咽から呼吸器が抜かれヒリヒリしていた。

 「I want somthing to drink!」

 のどがカラカラだった。冷たいミルクを飲ませてもらうと、すぐにまた眠った。

   ◇          ◇

翌朝、目覚めはさわやかだった。

 一日半の絶食後、初めての食事はトーストと紅茶だった。タイの小さなトーストとティーバッグの紅茶。何でもない食事だったが、ものすごく美味に感じた。

 下半身は麻酔でブロックされていて感覚が無かった。本当に変わったのか?

 早く知りたい部分は、厚いテープでガードされていて見えない。

 食事はメニューでナースに注文する。昼食を英語のメニューから注文してみると、イメージとは違う食事が出てきた。仕方なく食べようとして、ベッドを半分起こしてもらった。

 食事を終え、ベッドを元に戻してもらった。お尻の下のシーツが真っ赤に染まっていた。手術部位のどこからか出血していた。

 横になって寝間着を着替えさせてもらい、シーツを替えて、お尻の下には吸水シートを敷いてもらった。

 出血は収まらなかった。吸水シートが血の海であふれてしまった。

 脳貧血の症状が出てきて、天井がグルグル回り始めた。

 意識が遠のき、今度こそ本当に死んでしまうと思った。

   ◇          ◇
 しばらくして意識が戻ると、部屋にはナースが五人も詰め掛けていた。

 ナースの顔が、再度回り始めた。やがて医師が駆け付けて、再度、縫合手術を行うことになった。

 下半身麻酔が効いていたので、縫合手術はすぐに終わった。尿道の縫合がほつれていた。

 二度目のの手術でヘトヘトになって眠った。

 翌日からは、ベッドでの退屈との闘いだった。テレビはタイ語で意味が分らなかった。

 持参の本はすぐに読んでしまい、日本人スタッフから借りた本を読んだり、テレビ映像だけを見て暇をつぶした。

 日本語を話せるのは彼女だけなので、彼女が部屋に来てくれるのが、一番の娯楽だった。

 一週間後、少量の出血があり、その縫合をするために、下腹部のばんそうこうなどが外された。そこを見ると、永年、嫌悪していた物が消滅していた。

 夢のようだった。

 一針の縫合をして、新しくできた膣を維持するためのダイレーションという作業を教えてもらった。

 シャワーを浴びてもいいという許可をもらい、病室にあるシャワールームで髪を洗った。

 壁にあった大きな鏡で自分の新しい身体を見た。

 そこには、夢にまで見た、本当の女性になったわたしが映っていた。

 涙があふれて、鏡を見つめることができなくなった。

 (鳥取市在住)


5

「新しい生活」 すべてを処分して 2/18


 退院の許可は、尿が順調に出ればもらえる。しかし、夕方になっても、新しい尿道から尿を自力で出すことが出来なかった。

 再びカテーテルを挿入されて、数日後に再び自力で排尿できるか確認することになった。

 カテーテルをつけていても、少しだけなら外出してもいいと許可をもらった。

 わたしは仏教徒だ。ここまで来られたこと、新しい命を授かったことを仏陀に告げて、お礼を言いたかった。

 タイは仏教国だった。病院のスタッフに連れられて、寺院へ参った。

 「早く尿が出ますように」と祈った。

 しかし、再度挑戦しても尿は出なかった。

 数日後、もう帰国するという日も、結局、自力で排尿することはできなかった。

 医師は滞在延長をと言ったが、仕事の都合などもあり、排尿障害は帰国してから、泌尿器科を受診することにした。

 カテーテルをつけたままで、帰国の飛行機に乗った。

 島の飛行場を飛び立った時、涙があふれて止まらなかった。

   ◇          ◇

 帰国して、泌尿器科を受診した。

 医師は「そういう原因では保険は適用されないが、いいですか?」と冷たく言った。

 尿が出なくて困っているのだから、保険がどうであっても治療を受けるしかないのがわからないのかと思った。

 しかし、数日後にはカテーテルの周囲から尿があふれ出るようになり、カテーテルを外してもらうとすぐに排尿できた。

 初めて、新しい身体で排尿できた。その爽快さに感激した。

 仕事に復帰するのは、思ったより困難だった。立ち仕事だったが、一時間も立ち続けると手術部位が痛んだ。

 体力が戻るのに一ヵ月かかった。

 古くからの顧客には、手術を受けて性別が変わったことを話した。

 反応はさまざまで、二度と店に来ない人もいた。

 手術部位に衣服が触れると痛むので、仕事場でもスカートで働いた。

 偏見で見る人もいた。

   ◇          ◇

 機械を使う仕事だったが、起業して九年間も酷使した機械は、そのころが限界だった。修理をしても、次のトラブルがすぐに発生していて、仕事にならなかった。

 過去を処分して、最後に残ったのが仕事だった。

 その仕事も、終わりにする時が近づいていた。店の在庫も機械も、すべてを処分した。

 わずかなながらの収入も無くなり、これからどうやって生きていこうか途方にくれた。

 知り合いを頼って、仕事を紹介してもらおうと思ったが、どこも面接さえしてもらえなかった。

 仕方が無い…

 都会に出て、風俗でも何でもして暮らそうと思った。

 (鳥取市在住)


6

「恋愛感情」 本当の性別で初めて 2/19


 店の後始末をしているころ、男友達の同僚の人たちに、遊びに連れって行ってもらうことがあった。野外でバーベ−キューをしたり、ドライブ旅行に行ったりしていた。

 それまで行きたくても行けなかった温泉にも、新しい身体で入ることができた。

 どの温泉でも女湯に入るが、誰もわたしが性同一性障害者だと分らなかった。

 知り合いの女性と一緒に入浴していて、ドライヤーで髪を乾かす時までお互いに気が付かなかったこともあった。

 「普通の女性だったし、あなたとは思ってもみなかった」と彼女は言った。

 女友達と温泉に行くことも増えてきた。

 誰もが「全然普通だし、気にしないよ」と言ってくれたのがうれしかった。

   ◇          ◇

 神戸にルミナリエを見に行く予定を立てた。いつものメンバーと、わたしの女友達を誘って六人ほどで行くことになっていた。

 前日、わたしとドライバーをしてくれる彼以外の人が「風邪をひいた」と言い出し、当日神戸に二人きりで行くことになった。

 彼とはグループで一緒に行動していたが、特別な感情は持ってなかった。

 少し早めに出かけたので、姫路市の水族館にも立ち寄った。駐車場が心配だったので、手前の駅に車を置いて、電車で神戸駅に向かった。

 ハーバーランドから、神戸港のモザクガーデンまでの歩道は、イルミネーションで美しくライトアップされされていた。

 周囲を歩いているのはカップルばかりで、うれしそうに腕を組んで歩いていた。

 「わたしも腕につかまっていい?」

 いつもは無口な彼は、照れくさそうに了解してくれた。周囲のカップルと同化して、まるでデートのように二人でイルミネーションの中を歩いて行った。

 ルミナリエ会場は混雑していた。彼と離れないように、腕にしっかりつかまった。

 二人で光のトンネルの中を進んだ。幻想的な雰囲気で、気分が高揚していた。

 そんな時、無口な彼が「手が氷りのように冷たいだろう? コートを通して分るくらい」と言った。「うん、冷え性だから」。そう言うと、わたしの右手を自分のポケットに入れて、彼の手で温めてくれた。

 その瞬間、それまで彼に感じなかった感情が生まれてしまった。

   ◇          ◇

 男性に恋をしたのは、二度目だった。

 十代のころ、好きになった男性には彼女がいたし、まだ昔の身体だったわたしには、その人に告白することはできなかった。

 昔の身体のままでそういう感情を持てば、同性愛者と思われるのが嫌だった。

 女性と結婚できたのは、身体の面だけで考えれば異性愛だと思えるし、わたしの感覚では同性愛だったが、周囲はノーマルなカップルとしか考えないと思ったので、本当の自分に封印して、結婚をした。

 こうやって、本当の自分の性別で恋愛感情を持てたのは、このときが初めてだった。
 
(鳥取市在住)


7

「主婦」 思う存分家事ができ満足 2/20


 翌日から、彼の気持ちが気になって、仕事も上の空になっていた。

 無口な彼だったが、メールでは素直に答えてくれた。

 彼の家の事情で、わたしと付き合っても、いつ家の跡取りとして見合いをさせられるか分らないし、結婚もしなくてはいけない…というメールだった。

 わたしは結婚もできないし、子供も産めない身体なので、彼に付き合ってもらうだけでいいと思っていた。

 「愛人でいいから、付き合って」と言った。

 クリスマスの夜、彼と二人きりのパーティーをした。その夜、初めて彼と結ばれた。本当の意味で「女になった」と思った。

 あらためて、手術をしてくれたドクターの腕前に感激した。

 それは、普通の女性の初体験と同じだった。

   ◇          ◇

 店をやめたので、収入がアルバイト代しか無かった。生活も出来ない状態になっていた。彼の仕事が交代勤務だったので、擦(す)れ違いも多かった。

 最初のころ、彼は実家に帰ったり、わたしの部屋に泊まったりしていた。

 なかなか言い出しにくかったが、生活費が無くて困っていることを彼に打ち明けた。生活費を彼が出してくれることになった。やっと、二人の生活が始まった。

 仕事に追われることもなくなり、思う存分家事をすることができた。昔から、主婦をするのが一番、自分に向いていると感じていた。掃除、洗濯、アイロン、料理も好きだった。

 彼を仕事に送りだし、家事を片付け、自分だけの時間を持てるのが、とてもうれしかった。

 わたしにとって、つかの間の幸せな時間だった。

   ◇          ◇

 主人の携帯電話が鳴った。

 主人の母からの電話だつたが、次の日曜に遠方の親戚まで両親を連れて行ってほしいという内容だった。法事ということだった。

 次の日曜、主人は両親を連れて親類まで行った。数日後、また主人の母から電話があり、来週の日曜も、また親類まで連れて行って欲しいとと言った。しかも、今度は泊まりがけで。

 また主人は両親を連れて、親類の家に泊まりに行った。その夜、急に胸騒ぎがして、主人にメールを送った。

 「親類に年頃の娘はいない?」

 すぐ携帯にメールが返ってきた。「親類に適齢期の娘はいないけど、叔父から見合いを勧められた」。こういうのを女の勘というのだろう。

 断ってくれるだろうと思ったものの、それを強制できる資格は、わたしには無いと思った。

 主人が帰ってきた。「来週、見合いをすることになった。断れなかった」。

 仕方ないこと…。そう考えても、涙があふれて止まらなかった。いつかこんな日が来ることは、覚悟していたつもりだった。泣かないようにと思っても、しばらくは泣かない日は無かった。

 主人は見合いに行った。すぐに帰ってきたので、「断った」と言ってくれると思った。

 「もう一度、会うことになった」。もう駄目だと思った。

 次の休日、また主人は親類に行った。別れる覚悟をしなくてはと思った。二度とこの部屋に帰ってこない気がした。

 しかし、主人は帰ってきた。

 「断ってきた」。うれしくて、また泣いてしまった。また、平和な時間が戻ってきた。

 (鳥取市在住)


8

「名前変更」 人前で堂々と名のれる 2/21



 インターネットを通じて知り合いになった性同一性障害者とのメール交換などで、名前の変更審判に必要な要件などは知っていた。

 そのための準備として、電気代などの公共料金の領収書、郵便物など実際にその名前を使用していたという証拠を残すようにしていた。

 最も有効だと思ったものは、趣味の写真で受賞した賞状や、印刷物に載った名前だ。

 おおむね三年以上の実使用が認められ、それに性同一性障害の診断書があれば、最近の判例では認められることになっていた。

 わたしは国内の医師の診断書は持っていない。しかし、性別適合手術をすでに受けているので、その診断書を証拠にした。

   ◇          ◇

 初めて裁判所に行った。家庭裁判所の受付けに行き「名前の変更をしたいのですが」と言った。

 年配の男性職員が、説明をしてくれると言った。別室で話をした。

 「下の名前を変更したいのです」

 「大体わかるよ…。理由はここに書きなさい。あんたの場合、男として生まれたけれど、それが嫌で女になりたいと思っているんだろ?」

 「大体合ってますけど、わたしの身体はすでに女です」

 「あっそう? これを書いて六百円の印紙を貼り、一緒に戸籍謄本と証拠になる書類と八十円切ってを五枚ほど持ってきておいてください」

 受付の男性は、最初は優しそうに応対してくれたのに、わたしが性同一性障害だと分ると、急に不愉快そうな顔になった。

 すぐに市役所に行き、戸籍謄本をもらい、部屋に帰って書類を書いた。

 その日のうちに、書類を家庭裁判所に提出した。

   ◇          ◇

 しばらくして、家庭裁判所から呼び出しの通知があった。「最初は聞き取り調査だけで終わるかも」。そう思って、あまり気負わず裁判所に向かった。

 最初に、調査員の男女に聞き取り調査を受けた。手術までのこと、家庭の状況、現在の生活などについて話した。参考資料については、それほど触れなかった。待ち合い室で待っているように言われた。

 再び同じ部屋に呼ばれると、そこには先ほどの調査員二名のほかに、家事裁判員が待っていた。その場で審判が行われるとは思っていなかったので、気楽に質問に答えた。

 審判官の質問は、ホルモン服用についてだった。話の中で、名前の変更許可は出る感じだったので、ここぞとばかりに戸籍の性別変更はできないかと質問してみた。

 答えはシンプルだった。

 「現行の戸籍法では、性別の変更は不可能だと思ってください。しかし、法律というのは時代とともに変わっていくものです。いつか可能になる日がきますから、希望を持ってください」

 法律の壁を見た気がした。しかし、名の変更許可は認められたので、落ち込んだ気持ちに明るさが射した。

 すぐに審判書を持って、市役所へ名の変更届けを提出した。

 それまでの男性名との決別し、堂々と名乗れる女性名となったことで、人前で自分の名前を呼ばれることに抵抗が無くなった。

 本当のわたしの身体、本当のわたしの名前…。一歩ずつ本当の自分に戻って行く喜びを感じた。

 残っている苦しみはたった一つ、書類上の性別だけとなった。

 (鳥取市在住)
 (次回掲載は24日付)


9

「写真講師」 初めて大勢の人の前で 2/24


 結婚をしてサラリーマンを辞め、自営業として写真店を開業した。仕事として、趣味としても、写真を撮影するようになった。店の常連客も巻き込んで、写真のクラブも立ち上げた。

 トランスを始めてからも、写真撮影は続けていた。

 手術を終えて、女性ホルモン支配下の身体になってからは、撮影対象が大きく変化していった。しかし、店が勢いを失い、仕事が無くなっていくにつれ、写真への情熱も下がって行った。

 デジタル写真時代がやってきた。現像機も買い換えの時期となり、デジタル対応の新製機に投資する余裕もなく、廃棄することにした。

 写真店にあったものをすべて処分し、残ったお金で最新のデジタルカメラを買った。それで、写真とさよならをするつもりだった。

   ◇          ◇

 しかし、そんなわたしに、降ってわいたような依頼の電話があった。写真の個展を開かせてもらってから付き合いがある、喫茶店の女主人からだった。

 「写真講座の講師をしてみない?」

 実に気軽なお誘いの電話だったが、知り合いや近所の人が生徒にいるかもしれないし、そうなれば、わたしの事情を説明しなくてはいけなくなるのではないかという心配も出てきた。

 とりあえず、面接してもらった。デジカメ講座を提案してみた。もちろん、性同一性障害で、性別適合手術を受けたことも話した。話し合いは順調に進んだ。提案した講座は新設になり、従来の写真講座も継続して欲しいと言われた。

 自分の講座が始まる前に、現行の写真講座の見学に参加した。

 そこで事件が起きた。

 前任講師は、昔からの知り合いの男性だった。わたしのトランス前のことをよく知っていた。

 講座の中で、わたしの紹介をしてくれた。「元われわれの仲間で、こう見えても男性です」。

 その方には事前にあいさつをしておいたのだが、わたしが性同一性障害であり、性別適合手術を受けたことも知らなかったのだ。

 「趣味で女装もしているのだろう」

 最もわたしが恐れる勘違いを、講座の生徒たちの前で言われた。わたしはすぐに自己紹介をさせてもらった。

 「わたしは性同一性障害で、性別適合手術(性転換手術)をタイで受けて、女性として生活しています。名の変更審判で、女性として生活していることも認められました」

 初めて大勢の人の前での、予期せぬカミングアウトだった。

 反応は無かった。もし、生徒たちがわたしを無視すれば、写真講座の継続受講はしないだろうと思った。

   ◇          ◇

 その事件があったので、新しい講座が始まったら、最初に、生徒たちに性同一性障害の話をしようと決心した。

 しばらくして、受講生の募集状況を尋ねてみた。写真講座は以前と同じくらいだったが、デジカメ講座は、席が足りないほど申し込みが殺到していた。

 初講座の日、写真講座の生徒の前で大カミングアウトをした。反応は無かったが、誰も嫌な顔はしていなかった。

 次いで、デジカメ講座の三十名の生徒の前での大カミングアウトをした。

 後日、一人の生徒さんから応援のメールを頂いた。講座は好評で、出席率も良いとセンターの職員から言われた。

 初めての大勢の人へのカミングアウトから始まった講座は、自分なりにうまくいったと思った。

 (鳥取市在住)


10

「闘いの始まり」 「個人の問題」ではない 2/25


 ある日、市役所の秘書広報課から、市の美術展での入選作品紹介記事を市報に掲載するので、取材をさせてほしいという電話があった。

 市役所で、担当の女性に会って話をした。

 彼女との雑談の中で、自分は性同一性障害者で、それで市役所の窓口で嫌な思いをしたことがあるというような話をした。市報に記事が出てからも、彼女とメールで連絡を取っていた。

 わたしが、他にも書類の性別が違っていることでいろいろと困っている現状を話すと、市民参画課の方に、意見書などを持って行ってはどうかとアドバイスをしてくれた。

 市民参画課を通じて、性同一性障害者が抱える人権問題を、市長あてに送ってみた。

 書類から余計な性別記載を減らすよう、書類の見直しを進めているということだったが、その処置はマスコミに公表してもらえなかった。

 実質的な反応は、あまり無かった。

   ◇          ◇

 市長から、年賀メールが届いた。わたしが、窓口で不快な思いをしないよう、処置をしたと書いてあった。

 「わたし個人の問題」と受け取られたのだろうか?違う!この問題は、もっと多くの性同一性障害者共通の人権問題なのだ。」

 わたしは、差別や蔑視(べっし)には慣れている。不愉快だけど、そんなことをいちいち気にしていたら、自分らしく生きることはできない。

 しかし、同じ悩みを抱える人の中には、書類の性別が現実と異なることで、就学や就職ができず、保険証を見せるのが嫌で病院にも行けない人もいる。

 表に書類が出ないよう、アルバイトや日雇いで生活費を稼ぎ、ぎりぎりの生活の中で、手術費をねん出し、ホルモン治療を受けている。性別適合手術後、わたしたちを最も苦しめるのは、この書類上に残された過去の性別なのだ。

 書類の性別が、すべて戸籍に記載されたものを適用する以上、この問題を解決する方法はたった一つ、戸籍法を改正して、戸籍の性別訂正が可能になるようにすることだ。

 今の戸籍法では、性別の根拠となる「続き柄」に手を加えることが許されていない。出生時の、簡易な外性器を一べつしただけの性別判定を絶対的とし、続き柄の訂正は、法的に不可能であると決めているのだから、全く性別訂正の道は閉ざされている。

   ◇          ◇

 このままでは、一生、本当の性別で生活することができない。就学、就職、結婚など、一般市民として当たり前なことさえも、現実と違う書類の性別のために不可能なのだ。

 新しい治療のガイドラインでは、十八歳から性同一性障害の治療が始められる。

 カウンセリング、ホルモン治療、リアルライフテストを終え、性別適合手術を終えるまで、最短で三年ほど。最も早く治療を行えば、二十一歳には、新しい性別の身体になることができる。

 しかし、その後の人生は、一般の人ようなものは望めないだろう。

 学校を無事に卒業し、就職をして、恋愛をして、結婚をする。そんな当たり前の人生を、性同一性障害者は決して歩むことができないのだ。

 たった一文字の「性別」の違いのために。

 (鳥取市在住)


11

「新聞公表」 人権問題として啓発 2/26


 市民参画課の男性と、メールでてろいろと対策を検討していた。

 直接、市政へ訴える以外に、市議会への請願という形で、議会へ上げてみてはどうか? と提案された。

 市議会では、陳情は議会に諮らないが、請願は議会に諮るということだった。しかし、請願をするには、市議会議員の推薦が必要だった。

 わたしは議員名簿を調べて女性議員の中で、最もこの問題に理解が深そうな女性を選んだ。

 請願の内容は二点に絞った。

 一つは、市の書類から、不要な性別記載を無くすこと。されが可能になれば、手術を受ける前の性同一性障害者が、無用な差別を受ける機会を減らすことができる。

 二つ目は、手術を終えた性同一性障害者の戸籍の訂正が可能になるよう、国に意見書を提出して欲しいというものだ。

 これにより、手術後の性同一性障害者の最大の障害をなくすことが可能になる。

   ◇          ◇

 手紙と資料を一式、彼女の家に送った。すぐに電話があった。

 「直接会って、お話をしましょう」

 すぐに、市役所で会うことになった。

 請願の推薦の話は、快く受けてもらえた。しかし、その前に対策を考えてみようと言われ、可能なことであれば、請願をする前に市長と相談をして、対処してもらうことにした。

 女性市議に、請願を預けることにした。

 しばらくして、メールで他の市議の反応を聞いてみた。

 「あまりいい雰囲気ではないね。この議会では請願は難しいかも」

 予想した通り、年配の男性議員がほとんどの議会では、このような性差別の問題は、理解を得られそうにはない。

 しかし、黙って請願をあきらめるわけにはいかない。請願を否決されたとしても、今後の戸籍法改正の運動に、大きな影響はないかもしれない。

 しかし、わたしの郷里であるこの土地に、全く人権を理解できない議会があるということは、どうしても許せないのだ。

 この市は「人権尊重都市」宣言をしている。

 それなのに、このような深刻な人権侵害問題を無視するような議会であってはならないと思う。

 しかし、この問題に関しては、世論はまだまだ無知である。

   ◇          ◇

 請願をするまでに、もっと多くの人に、これが大きな人権問題であるという啓発をしなくてはいけないと思った。

 そこで、少し前から考えていた地元の日本海新聞への公表をお願いした。

 仮名の記事に、より真実味を添えるために、顔写真を公表した。

 興味本位で見る人には、格好の話題になるかもしれないと思った。

 それを見て、受けなくてもよい差別を受けるかもしれないとも思った。仮名は、自分のためではなく、家族のために使った。

 (鳥取市在住)


12

「語り部」 多くの人に知ってもらおう 2/27


 記事が掲載された日、わたしへの電子メールが山のように届いた。

 すべて「激励」のメールだった。

 「がんばって! 応援している」

 「勇気を見習いたい」
 友人、知人からの、たくさんの応援メッセージがうれしかった。

 わたしは一人で闘うつもりだった。しかし、多くの人がわたしを激励してくれた。

 東京で活動している人、各地で個別に活動している人からも、多くのメッセージをいただいた。

 心配していた、ひぼう中傷のメールは皆無だった。

   ◇          ◇

 裁判官は言う。「この問題は、まだ社会的コンセンサスを得られていない」

 では、この多くの激励、応援のメッセージは何?

 記事以後、各地で人権運動をしている人たちから「ぜひ、お話を聞かせてほしい」との依頼がある。

 県知事への意見をしたら、「検討したい」との返事をいただいた。

 すぐに人権局長から反応があり、「性同一性障害にかかわる人権問題を話してほしい」とのことで、人権関係の県議員の研修として、わたしを講師に招いてくれた。

 終業後に二時間いただて、この問題が深く人権を侵害する問題であることを説明した。

 聴講した職員の方からは「実際に聞いてみて、この問題が人権にかかわる大きな問題であることが分りました」との感想をいただいた。

 資料だけでは理解できない、当事者の苦しみが伝わったのかもしれない。

 もっと多くの人に、この問題をお話ししなければ…。そう思った。

 そのことで、無用な差別を受けることになるかもしれないが、誰一人、この問題を提起するものがいなければ、この地にこの問題を理解できる人がいなくなる。

 それでは、いつまでたっても「社会的コンセンサスは得られない」といわれる。

 「一人でも多くの人に、この問題を知ってもらおう」

 こうしてわたしは、この問題の語り部となることにした。

   ◇          ◇

 わたしの望みはただ一つ、ふつうの女性として暮らすこと。

 これまで、ずっと本当の自分を取り戻すためだけに闘ってきた。

 家族に恨まれ、人間関係も失い、仕事も無く、財産も無く、それでも治療を続け、やっと自分の本当の身体を取り戻し、名前も闘って取り戻した。

 これが本当に最後の闘いなのだ。

 性転換のわたしではなく、ふつうのわたしになれれば、もう闘う必要は無い。

 種類のたった一文字。まだ、その一文字に苦しむわたしがいる。

 こんな当たり前のことが、日本では認められないなら、わたしに残された道は、この国を捨てることだけです。

 亡命? たった一文字のために? こんな国で本当にいいの?

 (おわり)
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〒680―8688 鳥取市富安2丁目137
新日本海新聞社学芸部「真実の性を求めて」係。
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話題を追う
県内に広がる波紋
性同一性障害 連載手記へ読者の声 3/14

http://www.nnn.co.jp/tokusyu/wadai/wadai030314.html

 「『真実の性を求めて』を読ませていただくたび、心の悩み、痛みが伝わってきて、偏見を持っていた自分が恥ずかしくなりました」(38歳、3児の母)−。

 性同一性障害。これまであまり表に出なかったこの言葉が、鳥取県内で注目されている。他の多くの障害への偏見、行政の人権配慮への見直しなど、さまざまな波紋を広げている。鳥取市内の性同一性障害者(40)が本紙家庭面に連載(2月13日−27日付)した手記『真実の性を求めて』に寄せられた読者の声を紹介する。

 「体と心の性の食い違いに気付くところから、いろんな人に励ましの声援を受けるまで、涙をこらえながら読んでいました」(鳥取市・主婦)

 「ひと昔前は、ひやかされたり、恥ずかしいことだ、隠すべきことだと、ご本人たちはどんなに苦しんでいたことでしょう。(今でもですね)でも光はさしています」(江府町・四十一歳女性)

 今年一月、戸籍の性別変更を求める鳥取市の性同一性障害者の訴えが本紙で報道されて以来、この問題は多くの人の注目を集めたが、人々の関心は障害という認識とは程遠いものだった。しかし、本人の手記連載により共感、応援へと意識は変わっていった。

 「初めて性同一性障害という言葉を聞いた時、よく理解しないまま、なんとなく差別意識がありました。最初手記を読んだときも好奇心から読みました。読ませていただくたび、心の悩み、痛みが伝わってきて、偏見を持った自分が恥ずかしくなりました」(米子市・女性)

 「今まで興味本位に書かれた記事は読んだことがあるが、障害者本人の手記に感動した」(鳥取市・六十八歳男性)

 「大学の先生や医者の記事はよくあるが、ご本人が自分の言葉で書かれたことが、私や多くの人の共感を呼んだものと思います」(米子市・女性)

 自身の思いを込めてつづられた手記は、性同一性障害が「障害」であることを多くの人に認識させ、他の多くの差別を見つめ直すきっかけを与えることにもなった。

 「性別記載のことにしても、私たちにはなんでもないことでも、それで苦しんでいる人たちが大勢いることもわかりました。私は自分の偏見、差別に気がつきました」(米子市・主婦)

 「世の中には社会的弱者が少なくない。これらの人々も偏見や差別に悩んでいる。他人まかせでなく、自分で声を上げる必要性を教えてくれた」(鳥取市・男性)

 「手記を連載した当事者は、苦しみながらも、市議会へ請願したことはとても素晴らしいことをなしとげたと思います」(鳥取市・女性)

 新聞社に寄せられた声の中には、反発と冷静な報道を求める声、さらに、性同一性障害の病気としての認定に疑問を持つ声も寄せられている。

 「性同一性障害者であっても、性器の整形までは望まない人もいますし、『肉体と精神が別の性』というありのままを受け入れて自然体で生きている人もいます」(鳥取市・男性)

 しかし、寄せられた声のほとんどは激励と社会的体制の整備を求めている。それは男女や若者と高齢者、障害者と健常者が「共生できる」社会への波動となっている。

 「きっと近いうちに、性別の変更ができるようになると思います。そして、日本中も。声を出せずにいた多くの人々が、もっと平気で話し、思い通りの性別で暮らせるように祈っております」(日野郡・女性)

 「障害のある方が、ふつうに生活できるように、社会が変わらなければと痛感しました」(米子市・主婦)

 「今回の手記を読んで、私は生きるための勇気と希望をもらいました。私からは『がんばって下さい』と言いたいです」(鳥取市・女性)

 鳥取市では四月から一部の書類で性別記載欄が削除されるほか、県も人権尊重の立場から検討を進める。全国的には東京都小金井市、府中市、埼玉県新座市、草加市でも市議会レベルで性同一性障害者への配慮を求める取り組みが進められている。


東風西風(3/14)

 ▽…本紙に連載した性同一性障害者の手記に対して、多くの読者から反響が寄せられた(鳥取地域総合面に掲載)。「自分の偏見、差別に気が付きました」「他人まかせでなく、自分で声を上げる必要性を教えてくれた」「社会が変わらなければと痛感した」。一人の人間の勇気ある行動が共感を呼び、人権の大切さを県民に教えてくれた。当事者の肉声をつづったこの手記が、あらゆる差別と偏見をなくするきっかけになれば幸いである。(森原)


Copyright 2003 The New Nihonkai Shimbun

植田紀子 日本海新聞報道部記者 (この記事を書いた人) usnoriko@ns.nnn.co.jp

テキスト化にあたっては、千尋(AC)さんのお力をいただきました。と言うより、彼女一人の力です(笑)。


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