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働く女性にエール 元文相赤松良子氏(人間発見) (日本経済:全4回 2005/03/22〜25 夕刊)
updated 2005/03/25
2005/03/22
(1)
女性の地位向上に力を注ぎ続ける
憲法24条、いきさつを映画に
男女雇用機会均等法、作ってよかった
赤松良子さん(75)は労働省婦人少年局長などを歴任の後、ウルグアイ大使、文京女子大学(現文京学院大学―引用者注)教授などを経て九三年に文部大臣に就任。文相を辞してからは再び大学の教壇に立ったり、国際女性の地位協会会長に再任されたりと、女性の地位向上に力を注ぐ。最近は憲法草案の人権条項作成に携わったベアテ・シロタ・ゴードンさんの映画の制作にもかかわり、四月三十日から東京・神田神保町の岩波ホールで上映される。
ベアテさんは憲法草案作成時に、男女平等という文言を加えた人です。二年前に親しい友人らと集まって談笑していた時「ベアテも八十を過ぎた。彼女が生きているうちに映画でも作りたいね」という話になりました。そのうち労働省の後輩の岩田喜美枝さん(現資生堂取締役CSR部長)が役所を退職した。私が退職した時は退職金の一部を国際女性の地位協会に寄付し、その結果、女子差別撤廃条約の研究、普及に貢献した人を表彰する赤松良子賞が創設されました。
そんなことがあったので彼女には「退職金の一部は『これだ』と思うものに使った方がいい」とささやいたら岩田さんはすぐピンときた。それに度胸がいい人だから「映画、作りましょう」ということになりました。制作委員会を立ち上げ、私が代表、ベアテさんの日本でのマネジャー的存在の落合良さんが副代表、岩田さんが資金集めを担当する事務局長になりました。
ベアテ・シロタ・ゴードンさんは一九二三年、ウィーン生まれ。ピアニストである父が東京音楽学校(現東京芸大)の教授に迎えられ、両親と連れだって五歳で来日。十五歳までの十年間を過ごし、戦後は日本国憲法の草案作りの委員に任命される。
ベアテさんは憲法起草委員として、女性の権利を盛り込みました。戦前の女性の地位の低さを知っているからこそ、日本の女性のために法の下の平等をうたった憲法一四条、家族生活における個人の尊厳と両性の平等に触れた二四条を残してくれました。特に二四条があったればこそ、今日の女性があると思っています。そうしたいきさつを具体的に映像で示せば、若い女性たちも「ああ、そうだったのか。私たちも頑張らねば」と思ってくれるのではないかというのが映画を作った動機です。
映画「ベアテの贈りもの」では発足間もない労働省婦人少年局のスタッフの奮戦ぶりなども丹念に描かれる。そして赤松さんといえば男女雇用機会均等法の制定(一九八五年)に向け、労働省婦人少年局長として最前線で尽力した人。その均等法も施行後“二十歳”を迎えようとしている。
当時は均等法ができると日本がつぶれるとか国際競争力を失うとか、いや、かまびすしかった。外部が大変なら労働省内だけでもしっかり固めなければならないのですが、「こんな法律を作ったら大変なことになる」という声が聞こえてきたし、「赤松というのは、入省当時から手に負えないと思っていた」などと言う人もいたらしい。
当時、婦人少年問題審議会の婦人労働部会というところでいろいろ議論したのですが、経営側がテーブルにつかない。反対声明を出すとまで言いだし、それはないでしょうと言って理解していただいた。労働側も労働基準法の改正には及び腰だったし、また女性団体は最初は熱心な応援団だったのですが、途中からつまらない法律ならいらないと言い出しました。でも今振り返れば、作ってよかったと思っています。
(聞き手は編集委員 鹿嶋敬)
2005/03/23
(2)
洋画家の父は優しく、伸び伸び育つ
東大卒業、労働省“花の婦人課”に
役所内、みんなで茶碗酒
父は画家、赤松麟作。東京美術学校(現・東京芸大)で黒田清輝に師事し、明治、大正、昭和にかけて活躍した洋画壇の重鎮。代表作に「夜汽車」がある。赤松さんは麟作が五十を過ぎてからの子どもだ。
父は四十歳で離婚し、母と再婚してから三人の子どもをもうけました。姉と赤ん坊の時亡くなった兄、そして私。非常に優しい父親で、特に私には甘かった。八十を過ぎた姉は、いまだに偏愛だったとひがんでいます。私が二十歳の時の肖像画があり、上等な額縁に入れて人が訪ねてきたときすぐ見える位置に掛けてある。それを見た人はみんな、私に対する愛と期待がこもっていると言います。
その絵は私が東大に入った時の夏に描いたもの。父は日ごろ、東大なんか大嫌いだと言っていました。芸術家だから、世の中に東大出がのさばっているのが腹立たしかったのだと思います。でも、自分の娘が入ったら何となく得意になる。そんな、ちょっぴり複雑な心境も絵に表れているのかもしれない。私だけを描いた作品はこの絵を含め三点ありましたが、一点は空襲で焼けてしまいました。
父はよく言えばリベラル、悪く言えばほったらかしで、細かいことをとやかく言わない。母は若いころ、ろくに教育を受けていなかったことを気にしていました。だから娘が上の学校に行くことには大賛成。自分の無教育の悔しさを娘で晴らしたいという思いがあったのかもしれません。そんな両親の元で私は伸び伸び育ちました。しかられた記憶はほとんどありませんね。ま、その分、しつけがなっていなかったから、今でもお行儀は悪いと思っています。
津田塾専門学校で英語を学んだ後、東大法学部に入学した。入学者八百人中、女子学生は四人。卒業後は労働省に入省、婦人少年局婦人課に配属になった。そこは“花の婦人課”とも呼ばれた。
労働問題に関心を持つようになったのはむろん大学時代ですが、そういう時代でもあったということです。労働運動、労働問題が世の中の中心のテーマで、連日のように関連記事が新聞のトップを飾っていました。だから関心を持つのは当たり前と言えば当たり前でした。
法学部で勉強しているうちに、将来は行政に進もうと思っていましたが、極めて門戸が狭かった。労働省に入ったのも、大学を卒業した一九五三年当時、女性を採用する役所はそこだけだったからです。例えば文部省を希望しても採ってくれない。労働省だけが女性を採ったというのも、婦人少年局があったからです。
「花の婦人課」が世間に広まったのは私が局長になった時、日本経済新聞の「交遊抄」にそんな趣旨の話を書いてから。当時、そう自称していたことは確かで、顔ぶれをみればそうそうたるメンバーでした。婦人課長は後に社会党の副委員長になられた田中寿美子さん、課長補佐は後のデンマーク大使高橋展子さん。三年先輩には森山真弓さん(現・衆院議員)がいました。花の婦人課と言い出したのは高橋さんだったと思います。彼女はそういうネーミングがうまいし、実際、自分自身が花だと思い込んでいた節もありました。
「トラの婦人課」とも呼ばれましたけどね。そのころは茶碗(ちゃわん)酒。酒一升をどこからか調達してきて、みんなで飲むんです。役所の中でですが、もちろん時間外にですよ。寒い時期はストーブはあってもろくに燃やすものもないから、不必要になった書類などをくべながら一升瓶から直接茶碗についでグイグイと。
(聞き手は編集委員 鹿嶋敬)
【図・写真】父の麟作が描いた「良子20歳」
2005/03/24
(3)
「不遇」にめげず男性社会にジャブ
大学から誘い…一度だけ揺れた心
負けん気で踏ん張り「全国初」ポストへ
労働省に入ったものの男性社会の壁は厚く、それが赤松さんをいら立たせた。入省後、五年間は婦人少年局婦人課に「塩漬け」に。赤松さんによるとその間も含めた十数年間は「不遇の時代」だそうだが、状況を改善すべく、盛んにジャブを繰り出した。
私が労働省に入った当時は、上級試験を受けて採用されたにもかかわらず女性は婦人少年局から他の局に転出する可能性が極めて小さかった。「男性の同僚と同じように“見習い時代”を過ごさせてほしい」と訴えても、ほかの局が「女性なんかもらっても困る」というところばかりなのだからどうしようもない。入省して三年くらいたったころから「外に出して」とワーワー言い出した。秘書課長にも言ったし、官房長にも訴えました。
当然、生意気に映る。今でこそ「男女共同参画社会の実現は最重要課題」などと認識されているが、そのころは「何、世まい言を言ってるんだ」で片付けられた。でも人事のやり方が間違っていると思うから、文句を言い続けました。そんなに言うならといって出されたのが埼玉労働基準局。仕事は本庁と同じ調査の仕事でしたが、たまたま最低賃金法という法律ができて、調査課が賃金課に格上げになった。その説明会に出かけ、課長補佐などよりうまく説明ができるので、やるじゃないかということになった。当たり前です。その程度のことは若くても、女性であってもできる。
東京・代々木八幡から埼玉県浦和市(現・さいたま市)への通勤は電車の乗り換えが四回もあって大変だったようだ。子どもをお手伝いさんに預けるなど、仕事と家庭の両立の大変さをたっぷり味わった。
通勤はつらかったですね。体力は消耗するし、待ち時間もバカにならない。あのころはどん底という感じでしたが、仕事を辞めようと思ったのは一回だけ。子育てではなく、課長と係長の間に挟まって十二指腸かいようになってしまった。これはたまらんと思っていたところに、大学に来ませんかというお誘いがあった。ちょっと心は揺れましたね。大学の先生になってテレビなどに出たら、樋口恵子(評論家)などよりうまいこと言うぜって。樋口さんとは田中寿美子さんが始められた婦人問題懇話会という小さな研究会の仲間でした。だから樋口にできることが、私にできないことはないなんて。思い上がりだったかなあ。
埼玉労働基準局に勤務していた当時、青杉優子のペンネームで「婦人展望(現女性展望―引用者注)」(市川房枝記念会)に論文を書いた。「結婚退職制度は違憲――住友セメント(現住友大阪セメント―引用者注)事件の判決を巡って」。文章に、素晴らしい判決が出てうれしいという気持ちがにじむ。著書「均等法をつくる」(勁草書房)で、次のように書く。「世をしのぶ仮の姿で(原稿を書いたのは)、職場での男女平等を進めようとしていた、少なくともそれをめざしていた時である」
仕事を辞めずに踏ん張れたのは、辞めるもんかという負けん気と、また辞めたら経済的にやっていけないということがありました。自分の収入がない生活はごめんです。私に「全国初の」という冠がつくポストは群馬労働基準局の労災補償課長。監督課長はいましたが、労災補償課長はちょっとニュアンスが違う。大勢の部下がいるし、保険だからお金を集めなければならない。そんなことは女性には向かないと考える人が多かった時代ですが、ちゃんとこなしましたよ。
(聞き手は編集委員 鹿嶋敬)
【図・写真】婦人少年局長時代の赤松さん
2005/03/25
(4)
均等法作成に四苦八苦、成立後は大使に
大学で教べん、宗教の中の女性を解説
「これ」と思える仕事、大事にしてほしい
一九八二年に七代目の婦人少年局長に就任。婦人少年局婦人課時代の上司高橋展子さんはデンマーク大使として、女子差別撤廃条約を日本が批准する旨の署名を八〇年、コペンハーゲンで開かれた女性会議で行った。批准するためには男女雇用機会均等法を成立させる必要があった。
国家公務員試験を受けた時から婦人少年局長になりたいと思っていました。そして局長になると、均等法を作るという大仕事が待ちかまえていました。この仕事をするためにそれまで労働省で働いてきたようなものです。
経営側と労働側、それに均等法制定に当たっての応援団みたいな存在の女性団体。これら三者の調整だけでも四苦八苦しているのに、外野からは均等法は「文明の生態系を破壊する」などというすごい声まで聞こえてきました。「男は仕事、女は家庭」は日本の文化そのもので、均等法ができれば大切な役目を担ってきた主婦の士気を阻喪させるというわけです。反論を書くことも考えたが、そんな時間はありませんでした。
均等法に対し不十分な出来だという声もありましたが、その後改正が行われ、実効性のある法律に成長したと思っています。均等法成立という大任を果たし、ホッとしていた八五年の秋にウルグアイ大使にという打診がありました。遠いなという思いがあったのも事実ですが、私は常にどこにでも行く覚悟で働いてきました。それをお受けし、女性で二人目の特命全権大使に任命されました。
大使を辞してからは女子大学で教べんを執る。九三年には細川内閣で文部大臣を務めた。
大学では女性学を講義しました。宗教を取り上げ、仏教、キリスト教、イスラム教などが女性をどう見てきたかを解説した。一生懸命聴いている子もいましたよ。自分でもそんなにまずい講義だったとは思っていません。でも授業中にものを食べたりしゃべったりと、最近は最初から聴く気がない子もいて、腹立たしい思いもしましたね。
その後大学院で教えましたが、さすがに違った。聴講生歓迎だから、社会人も聴きにきていました。今でも私の家で、月に一回くらいの割で続けています。
細川護熙さんからは文部大臣にという打診を受ける以前にも、日本新党から参院選に出ないかというお誘いがありました。でも私は体が丈夫ではないのでと、お断りしたいきさつがある。文部大臣に関しては、ハワイで会議に出ている時に細川さんから直接電話がかかってきた。それで友人たちに夜中に電話で相談をし、結局受けることにしました。電話代がだいぶかさんだ記憶があります。
今の生きがいは非政府組織(NGO)活動で、その一つが選挙で女性候補を支援するネットワークWINWIN。現在、代表を務める。
WINWINは米国のエミリーズ・リストという女性候補者への選挙費用の支援活動に触発されてつくった組織です。WINWINが推して当選する女性国会議員、知事も増えています。でも会員がまだまだ少ない。自分の問題では健康が一番の関心事です。不健康では老後もつまらない。お酒の量は減りましたね。赤ワインは体にいいと聞いているので、毎日グラスに二杯くらい飲んでいます。健康を考えれば飲まない日を最低一日はつくれと一般にいわれるので、それを守っています。
若い女性に望みたいのは、これと思うような仕事を見つけて、それを大事にしながら働いてほしいということ。そうした積み重ねで、後に続く人たちの道も広がっていくのです。
(聞き手は編集委員 鹿嶋敬)
=次回はエルピーダメモリ社長、坂本幸雄さん
【図・写真】「赤ワインは1日2杯にしている」