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阿部浩己・今井直著
『テキストブック 国際人権法(初版)』
(日本評論社・1996年)ISBN: 4535510563
27〜38頁
uploaded 2002/01/18
第2章 国際人権訴訟
第一節 国際人権法と国内裁判
最近注目をあびている戦後補償を求める裁判のひとつに、「戟傷病者戦没者遺族等援護法」(以下、援護法と略)の国籍・戸籍条項の違法性を争う一連の訴訟がある。その中で、旧日本軍に軍属として徴用され負傷したある在日韓国人によって、1991年1月31日に大阪地裁に提起された訴訟では、国際人権法にかかわる問題が重要な争点となっている。というのは、援護法の国籍・戸籍条項が法の下の平等に反すると主張される際、憲法14条とともに、自由権規約(市民的及び政治的権利に関する国際規約)26条が援用されているからである。そして、この自由権規約26条に関しては、国連の自由権規約委員会がフランスの軍人年金法における国籍による差別を26条違反とした事例があり、これに照らすと援護法の国籍・戸籍条項も自由権規約違反の疑いを否定できないのである(この訴訟に関しては、丹波雅雄「在日・元軍属鄭商根戟後補償裁判」法学セミナー452号参照。なお、1995年10月11日大阪地裁は、援護の内容は立法政策の問題であるとして原告の請求を棄却したものの、在日韓国人を適用対象外とする援護法の扱いは憲法14条に違反する疑いがあると判示した)。こうした国際人権法を援用する訴訟は日本でも増加する傾向にあり、関係する分野も、外国人や難民の地位にかかわる問題のみならず、被拘禁者の人権、市民的自由、性差別、子どもの権利など多岐にわたる。少なくとも弁護士実務のレベルでは、人権訴訟において、国際人権法に対する関心とニーズはいやおうなく高まっているといってよい。そこで、ここでは、国内裁判における国際人権法の適用の問題について考えたい。とくに、その意義や訴訟の形態・方法を考察しようと思う。また、日本における国際人権訴訟の現状と問題点についても述べてみたい。
T 国際人権法における国内裁判の意義
人権条約などに定める国際人権基準の実施は、第一義的には国内機関にゆだねられていることは、前章で指摘したとおりである。主権国家から成る水平的分権的な国際社会の構造を考えれぼ、国際人権法といえども、その保障システムはなによりもまず「国内的実施」を予定せざるをえないのである。国内的実施の態様として重要なものは、人権条約の締約国となる際条約上の義務を履行するためにおこなわれる立法整備、国際人権基準と合致させた行政慣行、国内裁判(場合によっては準司法的な行政手続)の場における国際人権基準の適用である。とくに後者は、国内法秩序に国際人権法の原則・内容を具体的に反映させ、国内法の誤りや空白を是正、補完する継続的な営為として、その意義は強調されすぎることはない。この点は各種人権条約(自由権規約、人種差別撤廃条約、女性差別撤廃条約、ヨーロッパ人権条約など)が、締約国に対して、条約上の権利を侵害された者に実効的救済手段を提供する義務を課しており、とりわけ「司法上の救済措置の可能性を発展させること」(自由権規約2条3項(b))が念頭におかれていることからも明らかである。また、条約機関に条約違反を訴える個人や国家からの申立てにしても、原則的に国内的救済手段をつくしていることが手続上要求されており、国際的手続(国際的実施措置)は、国際人権法の保障システムにおいて、いわば国内裁判所などの役割を前提として機能していることがわかる。このように、国内裁判所は、国際人権法の性格、構造にまさに起因する役割として、国際人権法上の実施横関として積極的に位置づけられる。少なくとも人権条約締約国の裁判所は、これをみずからの任務と認識して国際人権基準に十分配慮しなければならない。残念ながら、日本の裁判所は、こうした自覚をもって国際人権法に関心をはらっているとは思えないのが現状である。
U 国内裁判における国際人権法適用の形態・方法
前述の援護法にかかわる戦後補償裁判に照らしていえば、援護法の国籍・戸籍条項が自由権規約26条に違反するという主張は、自由権規約がそのまま、つまり他の国内法の介在の必要なく国内裁判で適用されるということを前提としたうえでの主張である。これは、いわば国際人権法の「直接適用」を裁判所に求めた方法であるといえる。これに対して、憲法14条にいう法の下の平等の内容を解釈する際の指針として自由権規約26条を考慮するよう裁判所に求めることもできる。これは、自由権規約違反を直接争うものではなく、憲法の人権規定を国際人権基準に合致するよう解釈することを主張する方法であり、いわば国際人権法の「間接適用」といえる。実際の訴訟においては、これらふたつの方法を組み合わせた形で国際人権法は援用されるであろうが、両者はその性格や効果において本来異なるものであって、ここではいちおう区別して説明したい。
1 直接適用
国際人権法が国内裁判で直接適用されるためには、当該国際人権基準が法的拘束力を有することが必要である。つまり、条約か慣習国際法といった国際法としての明白な効力をもつものでなければならない。直接適用とは、問題となる行為(作為あるいは不作為)と条約などの国際法規範との両立性を判断することにほかならないから、この点は自明のことといえる。前章で述べたように、国際人権文書は、ある場合は条約、ある場合は宣言、勧告などの形式で作成されるが、直接適用の対象となるのは前者であって、後者は慣習国際法になったと認定されないかぎり直接適用されないことになる。
では、人権条約の場合(当該条約に批准、加入し締約国となっていることを前提として)、直接適用されるための条件としてどのような点が指摘されるであろうか。ここでは当然条約の国内的効力に関する一般理論が妥当し、まず、その国が条約の国内的効力を認めていることが必要とされる。国によっては、個々の条約が個別に国内法に変型されなければ国内的効力は発生しないとする体制をとっている国もあり(イギリス、カナダ、北欧諸国など)、こうした国では条約の直接適用の問題は基本的には生じない。これに対して、アメリカ、フランス、ドイツなどでは、条約を一般的に国内法体系に受容する憲法体制をとっており、条約の国内法上の序列はさまざまであるが、こうした国では条約がそれ自体として国内で適用されうることにはかわりない。日本でも、憲法98条2項により、条約を含む国際法に関して一般的受容体制を採用していると解されている。そして、日本が締約国となった条約は、公布とともに国内的効力を生じ、少なくとも法律より上位の地位を占めるというのが、政府、裁判所、学説に共通した認識である。したがって、裁判所が条約を直接適用して、国内法上の規定を条約違反と判断し、それを無効とすることは、理論上は日本でも十分ありうることなのである。
しかしながら、条約の国内的効力を認めている国でも、すべての条約が国内裁判で直接適用されうるとはかぎらない。この点は、行政府間だけで処理できるような外交上の事項を扱った条約のみならず、国家と個人の間の国内的関係を規律する人権条約の場合でも基本的に同様である。つまり、条約には、他の国内立法などの措置の必要なくもっぱら条約のみを根拠として裁判をおこなうことが可能である性格のものと、そうでないものとがあり、前者にいう直接適用可能な条約(自動執行的(self−executing)条約とよばれる)であるかどうかの判断がまず求められるのである。よく言われるのは、締約国に対して権利を「尊重し及び確保する」即時的義務を課する自由権規約は直接適用可能であるのに対して、社会権規約(経済的、社会的及び文化的権利に関する国際規約)の多くの権利の実現は「漸進的に達成」の義務を課されるにすぎず、直接適用可能ではないという点である。
たとえば、廃疾認定日において日本国民でなかったことだけを理由として、日本に帰化しているある全盲の女性に対する障害福祉年金の受給資格を認めなかった行政処分の取消しを求めた事件(塩見訴訟)において、大阪高裁は、社会権規約2条2項(無差別条項)、9条(社会保障の権利)の適用について否定的な立場をとった。すなわち、社会権規約がその内容を実施するためには立法手続を要する種類の条約であること、権利の完全な実現の漸進的達成が予定されていることが明らかであることを理由としてあげ、社会権規約の規定はそのままでは、国内ですでに施行されている法律や、その法律にもとづいてなされた処分の効力を判断する基準とはならないとしたのである(大阪高判昭和59年12月19日判時1145号3頁)。最高裁もこれを追認し、9条は「個人に対し即時に具体的権利を付与すべきことを定めたものではない」とした(最1小判平成元年3月2日訟務月報35巻9号1754頁)。もっとも、社会権規約の文言や起草作業からみて、権利を漸進的に達成する過程でも「差別をしてはならない」ことは、締約国の即時的義務であると解するのが妥当であり、無差別条項をも含み社会権規約の直接適用を一律排除した裁判所の判示は、この点の理解を欠いたものといわざるをえない(さらに、国連の社会権規約委員会によれば、無差別条項以外にも、労働基本権、子どもの保護、無償の初等義務教育などに関する規定は、「多くの国の法制度において、司法的その他の機関による即時的適用が可能であるようにみえる。こうした規定が本来的に非自動執行的であるという指摘は、維持されがたい」(1990年の一般的意見3)とする)。
なお、条約が直接適用されうるかどうかを判断するためには、いま述べた義務の性格の問題以外にも、さらに、当事国の意思(とくに、直接適用可能性を排除する否定的意思)、規定内容の明確性、国内法制の状況などの基準を考慮に入れねばならず、同じ条約でも、条項によって、国によって、そして、状況によって、判断のありかたが異なってくるとされる(この間題につき詳しくは、岩沢雄司『条約の国内適用可能性』(有斐閣、1985年)参照)。いずれにせよ、人権条約違反を主張する訴訟においては、直接適用可能性の問題は避けては通れない大きな関門である。
現実には、日本の裁判所が、人権条約を直接適用して国内法令や行政処分などの条約違反を認定した事例は、これまでのところそう多くはない。古くは、1965年の改正前の公共企業体等労働関係法4条3項のILO98号条約(団結権・団体交渉権条約)違反が争われた1966年の東京地裁判決がある程度である。この事件では、公共企業体等の職員でなければ当該組合の組合員・役員になれないとする公労法4条3項が、憲法28条に違背するとされるとともに、労働団体はその設立、任務遂行、管理に関して使用者側からの干渉に村して充分な保護を受けることを規定したILO98号条約2条にも抵触すると判断され、その無効が宣言された(東京地判昭和41年9月10日労民集17巻5号1042頁)。日本は、いくつかの重要なILO条約を批准しているが、労働関係裁判においてそれらがこうした形で適用された例は他にはみあたらない。
1980年代に入ってからは、外国人に対する指紋押捺強制、定住外国人の再入国の自由の制限、国民年金法の国籍条項、法廷傍聴人のメモ禁止、といった人権問題が裁判所で争われるたびに、とりわけ国際人権規約違反が積極的に主張されるようになった。しかし、この時期、弁護士や学者の問題提起とは裏腹に、裁判所が人権規約違反を認めたケースはなく、また規約の条項に関して説得力ある解釈を展開することもまれであった。
裁判所が人権規約(自由権規約)を直接適用して、人権保障にとって積極的な判断を導き出しはじめたのは、つい最近のことである。注目すべき判例をふたつあげよう。ひとつは、外国人被告人の通訳費用の負担に関する1993年2月3日の東京高裁判決である。この事件は、自称ナイジェリア人の大麻取締法違反につき、第一審の横浜地裁が有罪判決を下す際通訳費用の負担を被告人に命じたが、これが、自由権規約14条3項(f)に規定する「無料で通訳の援助を受けること」の保障に反するとして争われたものである。高裁は、日本国内での自由権規約の自動執行的性格を認めたうえで、無料で通訳の援助を受ける権利は自由権規約により「初めて成文上の根拠を持つに至ったもの」であるとし、その保障は「無条件かつ絶村的」なものとみなした。そして、「無料で」の意味を、裁判の結果にかかわらず後日の求償を予定していないものと解し、原判決を破棄したのである(法務省刑事局外国人関係事犯研究会編『外国人犯罪裁判例集』(法曹会、1994年)55頁)。この判断は、「当該権利は訴訟手続の結果から独立したもの」とする自由権規約委員会の解釈とも合致しており(1984年の一般的意見13/21参照)、国際基準にも耐えうる先例的価値をもつ判決といえるが、同様の問題を扱っている他の裁判所が十分にこの立場を踏襲していないきらいがある(たとえば、浦和地決平成6年9月1日判タ867号298頁)。
もうひとつは、指紋押捺拒否を理由として1986年に京都で逮捕された在日韓国人が、国家賠償を請求した事件に関する1994年10月28日の大阪高裁判決である。判決は、本件事実において警察官、裁判官の過失があったことを認め原告の請求を認容するとともに、慰謝料額算定のために指紋押捺制度自体の検討に入った。そして、それが定住外国人とりわけ原告のような平和条約国籍離脱者等に適用されるかぎりで、憲法13条・14条、自由権規約7条・26条に違反する状態であったとの疑いは否定できないとする画期的判断を下した。とくに自由権規約に関しては、その自動執行的性格を前提として、その解釈原則・方法を明確にしたうえで、自由権規約委員会の条文解釈やその具体的先例、さらには拷問等禁止条約の規定や欧州人権裁判所の判例などをも参考にして吟味し、結論を導いた。たとえば、指紋押捺制度が規約7条にいう「品位を傷つける取扱い」に該当するか否かについては、こうした国際人権法全体に目配りして、この概念の解釈と評価方法を明確化することにより、説得力をもって検討されたのである。人権条約の国内裁判での適用のしかたのモデルを提供しうるきわめて重要な判例といえよう(大阪高判平成6年10月28日判時1513号71頁)。
ところで、日本と同様に国際法の国内的効力を憲法で認めているアメリカでは、より活発な国際人権訴訟の展開が1980年以降みられ、裁判所が国際人権法を直接適用した事例もいくつかある。この展開において注目すべきことは、アメリカが批准している人権条約が当時少なかったため、慣習国際人権法に依拠せねばならなかったという点である。なかでも、フィラルチガ事件とフェルナンデス事件がとくに重要である。フィラルチガ事件は、パラグアイで自分の息子を警察によって拷問死させられたパラグアイ国民が、移住先のアメリカで拷問首謀者のパラグアイ人警察高官を発見し、この者に対する損害賠償請求を提起したものである。このパラグアイ国民間の民事訴訟に対し、1980年連邦控訴裁判所は、拷問の禁止は「慣習国際法の一部となっている」とみなし、外国人不法行為法(Alien
Tort Act)にもとづく連邦裁判所の管轄権を認め、これを受けて1984年連邦地方裁判所は、慣習国際法に違反する拷問行為を理由として被告に1040万ドルの賠償支払いを命じたのである(Filartiga
v.Pena-Irala,630F.2d 876(2d cir.1980).Filartiga
v.Pena-Irala, 577F.Supp.860(E.D.N.Y.1984))。また、フェルナンデス事件は、1980年連邦地方裁判所が、窓意的な拘禁の禁止を慣習国際法上の規則と認定したうえで、入国拒否事由に該当するキューバ人難民の無期限の収容を慣習国際法違反の悪意的拘禁であると判断し、即時釈放を命じたものである(Fernandez
v.Wilkinson,505F.Supp.787(D.Kan.1980))。
これらの事件では、世界人権宣言、自由権規約、米州人権条約、ヨーロッパ人権条約、拷問等禁止宣言といった国際人権文書が慣習国際人権法の証拠として引用された(なお、次節参照)。慣習国際人権法の存在の立証は必ずしも容易ではないが、人権条約を批准していない国であっても、このように、慣習国際人権法の適用という形で国際人権基準を裁判規範とすることができるのである(その後アメリカも、1992年に自由権規約、1994年に人種差別撤廃条約、拷問等禁止条約をあいついで批准した。しかし、自由権規約の批准の際に、規約の実体規定を自動執行的でないとする解釈宣言が付されたように、人権条約の直接適用はあいかわらず困難な状況にあり、慣習国際人権法の国内適用の意義は依然として存在する)。
2 間接適用
以上述べた国際人権法の直接適用と並行して追求されねばならないのが、国際人権法の間接適用という方法である。ここで間接適用とは、憲法その他の法規範、法原則を解釈、適用する際の指針として、あるいはその解釈・判断を補強するものとして国際人権基準を援用することをいう。当該行為と国際人権基準との両立性を直接判断するのでなく、あくまで国内法の解釈、適用に国際人権法の内容を反映させていこうとする、やや迂回した方法ではあるが、逆にそれゆえに、国内法令とは別個に条約を適用することや条約違反の認定をすることに消極的な裁判所にとっては、比較的受け入れやすい方法であるともいえる。また、条約の国内的効力を認めない変型体制をとっている国では、国内裁判で国際人権法に依拠するには間接適用しかない。間接適用の場合、援用される国際人権基準が法的拘束力を有するかどうかということはそれほど大きな問題ではない。つまり、それ自体としては法的拘束力のない宣言などの文書やその国が批准していない条約であっても、それらが普遍性と具体性をもつ基準を含んでいるのであれば、必要に応じて参照されうる。さらに、直接適用可能性の論点を回避できるというメリットもある。
日本の裁判例の中で、この間接適用の方法を用いて原告に有利な判断を導いた先行的なものとしては、1983年のキム・ヒョンジョ事件東京高裁判決がある。この事件は、在日韓国人の原告が、自治体職員から国民年金加入を勧誘されて12年にわたって保険料を掛け続けたにもかかわらず、65歳になって老齢年金の請求手続をしたところ、国民年金法の国籍要件を理由として支給を拒否されたので、その処分の取消しを求めたものである。第一審は請求を棄却したが、控訴審の東京高裁は、信義衡平の原則に依拠して裁判をおこない、「控訴人の信頼こ反してまで国籍要件を維持・貫徹する必要性が公益上存するものではない」と判断した。その際、信頼関係を行政当局がくつがえすことができるやむをえない公益上の必要性があるかどうかを検討する際、日本が社会権規約9条により外国人に対しても社会保障政策を推進すべき責任を負っていることなどが考慮された(東京高判昭和58年10月20日判時1092号31頁)。第一審が、社会権規約9条は外国人に対し具体的権利を付与するものではないとしてその適用を否定したのとは異なり、東京高裁は、信義衡平の原則を当該状況において適用する際の指針として社会権規約を用いたのである。
また、指紋押捺拒否を理由として再入国不許可処分を受けた定住外国人がその取消しを求めた訴訟のひとつであるキャサリーン・森川事件では、原告は、憲法22条の解釈に際して自由権規約12条4項を十分配慮するよう求めた。12条4項は「何人も、自国に戻る権利を窓意的に奪われない」と規定するが、同項の「自国」の意味は、国連の起草過程の審議からみて、「国籍国」に限定すべきでなく「定住国」をも含むと解するべきであり、これを根拠として定住外国人の再入国の自由が憲法上保障されているというのが、原告側の主張であった。判決は、「自国」の意味に関しては、国連の準備作業を十分に吟味することなく、日本のように国籍・戸籍という統一籍を備えている国では「国籍国」と解さざるをえないとし、原告の主張をしりぞけた(東京地判昭和61年3月26日判時1186号9頁)。しかし、原告の主張は、憲法を自由権規約に合致するよう解釈することを具体的に求めた典型的事例として注目される(また、1994年の在日韓国人ピアニスト再入国不許可処分取消訴訟控訴審判決では、法務大臣の裁量権濫用を認める画期的判断が下されたが、ここでも規約12条4項の「自国」は「国籍国」をさすと解釈された。なお、この訴訟で原告は、憲法とならんで自由権規約の直接適用を求め、処分の違法性を主張した。福岡高判平成6年5月13日判夕855号150頁)。
法律の違憲判断において、人権条約が補強材科として参照された重要な判例として、一連の非嫡出子相続差別訴訟における1993年6月23日の東京高裁決定があげられる。これは、非嫡出子の相続分を嫡出子の2分の1であるとする民法900条4号但書前段の規定を憲法14条1項に違反し無効であると判断する際、子どもの保護を受ける権利に関する自由権規約24条1項、親の地位等を理由とする差別を禁止する子どもの権利条約2条2項の「精神」を考慮したものであった。とくに、非嫡出子差別の禁止の趣旨が明確である子どもの権利条約については、当時まだ日本が未批准であったにもかかわらず言及したことに、間接適用の方法の有用性を認識できよう(東京高決平成5年6月23日判時1465号55頁。その後、同様の事件における1995年7月5日最高裁大法廷判決(民集49巻7号1789頁)は、民法同規定の合憲判断を下したが、反対意見は、国際社会の動向の証左として自由権規約や子ども権利条約に言及し、同規定の不合理性を指摘している)。
諸外国でも、国際人権法の間接適用に関しては、直接適用に比べて裁判官の抵抗感は少ないのが普通である。アメリカでは、前述したフェルナンデス事件に関して、1981年の第二審・連邦控訴裁判所は、第一審のように慣習国際人権法を直接適用するのではなく、みずからの移民帰化法の解釈を補強するものとして用いた(Fernandez
v.Wilkinson, 654F. 2d 1382(10th Cir. 1981))。同じ頃、被拘禁者の処遇に関連して、憲法にいう「デュー・プロセス」や「残酷で異常な刑罰」の概念を解釈する際に、世界人権宣言、自由権規約、国連被拘禁者処遇最低基準規則などを参照した判決もあらわれはじめた。条約の国内的効力を認めていないカナダでは、さらに顕著な展開がみられ、1982年に制定されたカナダ人権憲章を裁判所が解釈、適用する際に、国際人権規約やヨーロッパ人権条約がさかんに活用されている。とくにヨーロッパ人権条約については、カナダは締約国たりえないにもかかわらず、人権委員会・裁判所の先例も積極的に参考にしている。
V 日本の現状における問題点
直接適用にしろ間接適用にしろ、全般的にみて、日本の裁判所が国際人権法の活用に対して消極的であることは否定できない。その理由として、とくに次の点が指摘されよう。
まず、これは制度的な問題であるが、刑事訴訟法上刑事事件の上告・特別抗告の理由は憲法違反・判例違反に、民事訴訟法上民事事件の特別上告・特別抗告の理由は憲法違反に、それぞれ限定されているという点である。つまり国際人権規約などの条約違反を主張する訴訟は、最高裁では実質的な判断を得られにくい状況にある。最高裁は憲法の番人ではあっても、国際人権基準を擁護する権限と任務は十分に与えられていないのである。
次に、裁判所の一般的傾向として、国際人権法といえども憲法をこえる内容をもつものではなく、憲法の人権保障で足りるとする認識が依然として根強くある。たとえば、ある指紋押捺拒否訴訟における「憲法14条に反するものでない以上、国際人権規約B規約26条に抵触するものでないこともいうまでもない」(東京地判昭和59年8月29日判時1125号96頁)、法廷傍聴人のメモ採取禁止に関する訴訟における、自由権規約19条2項は「表現の自由に関する規定であるから、憲法21条で保障されている、表現の自由以上の意味を持つものと、解することはできない」(東京高判昭和62年12月25日判時1262号30頁)、援護法の国籍・戸籍条項に関する訴訟における「規約の定める平等原則も、憲法14条1項と同趣旨のもの」(東京地判平成6年7月15日判タ855号161頁、前述1995年10月11日大阪地裁判決)といった判断に、こうした認識は如実にあらわれている。国際人権規約違反を主張しても、裁判所は、その内容を吟味することなく、簡単に憲法と同趣旨であると片付けてしまうことが意外と多いのである。
さらに、Tでも述べたように、国際人権法の実施における国内裁判所の役割が基本的に自覚されていないという面も大きい。この役割意識欠如は、国際人権規約などが争点となったとき、裁判所としてのみずからの解釈や判断を回避したり、行政府の解釈・判断に追随しがちになる結果をもたらす。こうした裁判所の姿勢は、1989年末に起こった中国民航機ハイジャック事件(張振海事件)の犯人の中国への引渡しをめぐる裁判所の対応に典型的にみることができる。この事件では、政治犯不引渡し原則の問題とならんで、重大な人権侵害のおそれがあると主張される中国にその者を引き渡すことが、自由権規約7条の禁止する「非人道的取接い」に該当するかどうかが争われた(自由権規約委員会によれば、同条のもとで締約国は、ある者を、他国への引渡し、追放、送還により、拷問や非人道的取扱いの危険にさらしてはならないとされる。1992年の一般的意見20/44参照)。引渡し審査請求に対する東京高裁の決定は、この争点については「未解決の問題が伏在していたままとなっていることは否定できない」としながらも、法務大臣の最終的審査にゆだねられるとして実質判断を回避した(東京高判平成2年4月20日判時1344号35頁)。ところが、その直後に出された法務大臣の引渡し命令の執行停止を求めた訴訟では、東京地裁は、自由権規約の争点も高裁が最終的に司法判断をしているとして、これもまたみずからの判断を回避したのであった(東京地決平成2年4月25日判時1345号27頁)。当時の日中関係が天安門事件の余波で冷却化していたことを考えれば、この事件が政治的な意味をもつことは誰の目にも明らかであった。なればこそ、政治からは離れた立場にいる裁判所は、普遍的価値の表明たる国際人権基準にもとづいて客観的な判断を下すことに、もっと積極的であるべきであった。
以上のように、日本における国際人権訴訟には、克服するのが決して容易でない制度や意識の問題が横たわっている。これらの主として裁判する側にかかわる課題に対して、変化への内発的な動きが期待されるのはいうまでもないが、同時に、裁判所に国際人権法上の問題を提起する側も重い宿題を背負わされているのである。しばしばみられるように、単に国際人権基準を羅列してその違反を主張するだけでは成果は望みようがないし、また、客観的な裏付けのない我田引水的な解釈も、国際人権法に対する不信感を生み出さないともかぎらず逆効果であろう。援用する国際人権基準について、その準備作業、各国や関係国際機関の実行・解釈、学説などを引用して、より説得力のある論理を展開し、裁判所がそれを真剣に考慮せざるをえない状況をつくる必要があろう。この点については、ここ2、3年の間に、前述の指紋押捺拒否による逮捕の国家賠償請求訴訟をはじめとするモデル・ケースもあらわれてきた。こんにち国際人権訴訟は、1980年代に始まった試行錯誤の段階から社会的認知の段階に確実に移行しているのであり、国際人権法適用の諸形態をふまえた、より重層的な国際人権訴訟理論の構築へのさらなる努力が求められているといえよう。