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阿部浩己 今井直 藤本俊明著『テキストブック国際人権法(第二版)』日本評論社・2002年
pp. 203-212
第7章 人権の地域的保障
last edited 2002/07/12 (斜字は引用者が挿入)
■ヨーロッパ人権条約 European Convention on Human Rights (ECHR)
以前、アメリカの18歳の青年がシンガポールで、車へのいたずらで鞭打ち4回の刑に処せられたことが、「鞭打ち刑は残虐」とするアメリカ政府の抗議をよび、話題となったことがある。他国による自国民の取扱いに端を発したアメリカの「人権外交」には、利己的な面や自国の価値観の押しつけといった印象が目立ち、シンガポール政府の指導者も猛反発し、新聞などの論調も「ノーと言い始めたアジア」(1994年5月27日付朝日新聞)に同情的なようであった。ただ、アメリカの人権外交の是非と法定体罰たる鞭打ち刑の評価は、本来別個の問題である。とくに、国際人権法の観点から法定体罰の問題を検討した場合どうなるのかという客観的な議論も、この際必要であろう。世界人権宣言 Universal Declaration of Human Rights や国際人権規約(とくに自由権規約 International Covenant on Civil and Political
Rights (ICCPR))は、拷問や、残虐な、非人道的なあるいは品位を傷つける取扱い・刑罰を禁止しており、この人権規範は慣習国際法とも強行規範ともいわれており、各国をあまねく拘束するものである。しかし残念ながら、シンガポールは国際人権規約にも拷問等禁止条約にも入っておらず、国連の人権条約機関の場で同国の問題が議論されるという機会はない。また、アジアには独自の集団的人権保障システムはなく、アジア・レベルでの評価をおこなう場もない。
ところで、ヨーロッパでは、イギリスの自治領でアイルランド海のほぼ中央に位置するマン島における鞭打ち刑が、ヨーロッパ人権裁判所 European Court of Human Rights (ECHR) により「品位を傷つける刑罰」と認定された事例がある。これは、1950年につくられた「人権および基本的自由の保護のための条約
Convention for the Protection of Human Rights
and Fundamental Freedoms」(以下、ヨーロッパ人権条約 European Convention on Human Rights (ECHR) と略)にもとづく人権保障システムが活発に機能しているからこそ可能となった有権的国際判断であった。
T ヨーロッパ人権条約と鞭打ち刑事件
1972年当時、イギリス本土ではすでに法定体罰は廃止されていたが、マン島では若者の暴力犯罪を中心にいまだ適用されており、体罰刑の存続という点ではヨーロッパ全域をみても稀有の地域であった。当時15歳であったタイラーは、校内暴力事件によりマン島の少年裁判所で3回の鞭打ち刑を言い渡され、控訴棄却のうえ執行された。そこで彼は、両親を代理人として、この体罰がヨーロッパ人権条約3条に規定する「拷問または非人道的なもしくは品位を傷つける取扱いもしくは刑罰の禁止」に違反するとしてヨーロッパ人権委員会
European Commission of Human Rights に申し立てたのである。1976年、人権委員会は3条違反を認めた報告を作成するとともに、本件を人権裁判所に付託した。1978年4月25日の判決において人権裁判所は、法定体罰を個人の尊厳と身体の高潔さに対する制度化された暴力であると性格づけ、その犯罪の抑止的効果がなんであろうと、3条に違反する「品位を傷つける刑罰」として許容できないとした。世界人権宣言5条を原型とする3条は、元来ナチスによってなされたような最も残虐な行為を念頭において起草されたものであり、マン島の鞭打ち刑のように、表面的にはそれほど苛酷な苦痛を与えるようにはみえない刑罰や取扱いを当初からカバーしていたとは思われない。しかし、裁判所はその言にあるように、「条約は現在の諸状況に照らして解釈されなければならない生きた文書である」という積極的立場にたって判断を下したのであった(この判決を受けて、マン島における鞭打ち刑は廃止された)。
この事件は、ヨーロッパ人権条約適用のほんの1コマにすぎない。しかし、国連レベルに比べて、より実効的な人権保障システムが機能していることは容易に理解されよう。これは言うまでもなく、(西)ヨーロッパという特定の地域において、政治的経済的文化的な等質性・同質性の程度の高い諸国による集団的行動という所与の枠組みに依るところが大きい。事実、ヨーロッパ人権条約を中心としたこの地域の人権実践は、民主主義や法の支配について共通の基盤を有するがゆえに可能と思われる豊かなケース・ローの体系を形成しつつある。と同時に、ヨーロッパが国際人権の集団的実施のパイオニアとして、国連や他の地域に対して先駆的なモデルを提供し続けていることもまた否定できない。地域的人権保障の意義が、世界人権宣言などで一般的抽象的に定められた人権の普遍性を損なうことなく、それぞれの地域の状況やニーズに即したより具体的な人権内容の確定をおこない、それを最大限保障するために、その地域ならではの最善の実施措置を備えることであるとするならば、ヨーロッパはまさにその成功者たる地位にあるといえるのである。以下、ヨーロッパ人権条約の成立やその手続、そして意義と課題について概観してみたい。
U ヨーロッパ人権条約の成立
1 ヨーロッパ審議会
ヨーロッパ、米州、アフリカにみられる地域的人権保障システムは、いずれも一般的地域機構を母体としてその加盟国間で成立しており、ヨーロッパ人権条約の場合も、1949年5月に創設されたヨーロッパ審議会(Council of Europe)の存在なくしては語れない。ヨーロッパ審議会はいまでは、東欧や旧ソ連邦の諸国の加盟も増え、2001年3月現在43カ国(引用者注・現在は44カ国)の加盟国を擁し、拡大ヨーロッパを志向しているが、発足から冷戦終結にいたるまでは、軍事や経済以外の側面から西欧諸国間の統合と協調を推進することに邁進してきた。その設立文書である審議会規程 Statute of the Council of Europe にもあるように、その主要目的のひとつは加盟国(西欧諸国)における民主主義の伝統の擁護であり、このために人権の実現のための共同行動は不可欠な手段であると認識されており(1条)、法の支配の原則と人権尊重の原則の受諾が加盟国の義務とされていた(3条)。この人権尊重原則はかなり徹底したものであり、加盟の資格要件として人権尊重の能力と意思が問われ(4条)、さらにその重大な違反が代表権停止、脱退要請、除名の理由となるとされていた(8条。1969年にギリシャは、その軍事政権下における人権蹂躙政策を非難され脱退を余儀なくされたが、文民政権への移行を経て1974年に復帰した)。このように、ヨーロッパ審議会は当初から人権の大義へのコミットメントに熱心であったが、その背景としては、つい数年前までのファシズム体験、東西対立が進行する中でのイデオロギー面での対抗の要請といった点が指摘されよう。
2 人権条約・社会憲章・拷問等防止条約
ヨーロッパ人権条約作成への動きは、民間レベルですでにヨーロッパ審議会設立以前に始まっていた(ヨーロッパ統合運動国際委員会が1948年5月に開催したハーグ会議(その名誉議長はウィンストン・チャーチルであった)における人権憲章や裁判所設置の提案と、それに続くヨーロッパ運動法律委員会による条約私案など)が、それが本格化したのは、ヨーロッパ審議会の協議総会(現在の名称は議員総会 Parliamentary Assembly)の場である。協議総会は、ヨーロッパ審議会の代表機関である閣僚委員会 Committee of Ministers に勧告をおこなうことを任務とするが、各加盟国の議会の構成員の中から人口比に応じて選ばれる代表により構成されるという組織形態上の特徴をもち、これによりヨーロッパの一般世論が議論に反映されることを可能とする。協議総会がその最初の会期(1949年8月)から、ヨーロッパ人権条約の成立に積極的なイニシアチブをとったのは、協議総会のこの構成が強く関係している。協議総会は早速、その法律行政問題委員会に条約案の起草をゆだね、若干の修正を加えたうえでそれを協議総会勧告として採択した。協議総会案は、自由権を列挙した実体規定に加えて、実施措置規定の中に人権委員会への個人の申立権、人権裁判所の設置をすでに盛り込んでおり、ヨーロッパ人権条約の最も先鋭的部分の形成が、民間レベルの提案と連動した協議総会の明確な意思に依存していたことがわかる。協議総会の強い主張がなければ、個人の請願権が規定されていたかどうか疑わしいとさえいわれるゆえんである。
条約の起草作業は、その後閣僚委員会の場に移され、政府専門家委員会、上級公務員会議、閣僚委員会で順次検討されていく。人権裁判所の設置、個人の申立権の問題については、積極派のフランス、イタリアなどと消極派のイギリス、オランダなどとに色分けされ、最終的にはいずれも選択条項方式(つまり、裁判所や委員会の管轄を受諾する宣言をした締約国にのみ権限が及ぶ)で、妥協が成立することになる(ただし、裁判所への出訴権者は人権委員会と締約国のみ)。かくて、ヨーロッパ人権条約は1950年11月4日署名され、10カ国の批准が得られた1953年9月3日に効力を生じた(2001年3月現在、締約国は41カ国−引用者注・現在は44カ国)。なお、個人の申立手続が効力を生じたのは1955年であり、また人権裁判所が実際に設置されたのも1959年になってからであった。その後も、条約締約国数と受諾国数が一致しない状態が長期にわたって続いていたが、1989年にようやく条約締約国のすべてが双方とも受け入れるようになった。
その後、現在までにヨーロッパ人権条約に追加される12の議定書
Protocol がつくられ(引用者注−現在は13)、保障される権利を補充、拡大するとともに、人権委員会や人権裁判所の手続が改善されていった。たとえば、1983年の第6議定書は死刑の廃止を定めているし(引用者注−2002年の第13議定書は、「すべての場合における」死刑の廃止を定めている)、2000年の第12議定書は条約上の権利に限定されない一般的な差別禁止を定めている(これらの議定書の適用は、当然締約国による別個の批准を条件とする)。
それら議定書の中でも、制度の抜本的改革を定めたのが、1994年5月に署名のため開放された第11議定書である。これは、人権委員会と人権裁判所を廃止し、代わってフル・タイムで活動する常設的な人権裁判所を新設し、個人や国家はこの裁判所に直接出訴権をもつというものである(選択条項方式も廃止)。これにより、手続の迅速化と制度の司法的性格の強化がめざされている。第11議定書が効力を生ずるのはすべての締約国が批准してから1年後とされていたが、この要件は比較的迅速に満たされ、議定書は1998年11月1日に発効し、それをもって旧裁判所に代わって新裁判所が機能しはじめた(なお、人権委員会は、発効以前に受理していた事件を処理するため1999年10月31日まで存続した)。
また、ヨーロッパ審議会は、自由権を規定したヨーロッパ人権条約のいわば姉妹条約として、社会権を規定したヨーロッパ社会憲章 European Social Charter を1961年に作成した。この憲章の実施措置は、報告制度に限定されたゆるやかなものであり実効性に乏しく、そのため手続の改革が進行しており、1995年には、締約国の憲章違反につき労働組合、使用者団体、NGOの団体申立権を認める制度を定める新たな議定書がつくられ、効力を生じている。また、1987年には、被拘禁者に対する拷問等の非人道的取扱いを事前に防止する目的で、締約国の管轄下にある拘禁施設への委員会による定期的あるいはアド・ホックの査察制度を定めた画期的なヨーロッパ拷問等防止条約 European Convention for the Prevention of
Torture and Inhuman or Degrading Treatment
or Punishment もつくられ、ヨーロッパ人権条約のほぼすべての締約国が参加し、実効的に機能している。
V ヨーロッパ人権条約の実施措置
1 国家申立てと個人申立て
条約の最大の特徴はなんといってもその実施措置にある。条約は、他の締約国の条約違反を訴える締約国からの申立て
inter-State case と、条約上の権利を締約国に侵害されたと主張する個人からの申立て
individual application を認めている。以前は、人権委員会、人権裁判所、閣僚委員会がその処理にあたっていたが、現在は双方とも新人権裁判所により扱われる。条約の手続は、基本的には個人申立手続も国家申立手続も同様の進行をし、きわめて司法的なものとなっている。
国家申立てと個人申立ては、本来相互補完的な機能を果たすと考えられる。個人申立てがもっぱら被害者個人の救済を求める目的のものであるのに対し、国家申立てはある国や地域の一般的事態の改善を目的としたものであり、両者あわせてヨーロッパ全体の人権の向上に資することが期待される。ただ、国家申立てについてはこんにちまでわずか6つの事態が扱われたにすぎない。なかには、直接的な利害関係のない第三国が軍事政権下のギリシャ(1967年)やトルコ(1982年)における人権抑圧を集団で申し立てたような、共通法益の保護という条約起草者が本来意図した機能を果たそうとしたものもなくはないが(他のケースは自国民や同一民族の保護という動機からのもの)、やはり、外交上の配慮や思惑が国家申立てのネックとなるという、この制度についてよくいわれる指摘からヨーロッパの場合も免れてはいないのである。
これに対し、個人申立ての活性化ぶりは絶対数、増加率からいっても圧倒的であり、ヨーロッパ人権条約の手続は、まさに個人申立てに対応することを念頭において発展してきたと言って過言ではない。2000年までに事務局により正式に登録されたものだけでも総計で6万3910件であるが(暫定的にファイルされた申立て件数は18万0319に及ぶ)、なによりも近時の増加傾向はいちじるしく、1955年から1983年までの登録総数は1万0709件にすぎなかったのが、1988年に初めて年間1009件の登録数に達し、その後も増え続け、1998年には5981件、新制度発足後の1999年には8396件、2000年には1万0486件にまで及んでいる。締約国数の増加、制度改革という要因もさることながら、とりわけ市民のレベルでこの制度に対する認知と信頼が高まっていることが察知されよう。
個人申立ては、以前は人権委員会に提起されていた。委員会は、許容性
admissibility (受理可能性)審査、本案審査を経て、友好的解決
friendly settlement にいたらなかった場合、閣僚委員会への報告において条約違反の有無に関するみずからの意見を述べる。閣僚委員会は、事件が報告送付後3カ月以内に人権裁判所に付託されなかった場合、条約違反の有無に関する拘束力ある決定をおこなう。裁判所への出訴権は、関係締約国と人権委員会にのみ認められており、申立人個人は、裁判所の手続において正規の当事者とはなりえなかった。しかし、裁判所規則により、その代理人を通じて手続に参加し、みずからの主張を述べる機会を与えられていたのであり、一種当事者であるかのように行動していたこともまた事実であった。こうした慣行が定着してきたなか、個人の出訴権を認めない合理的理由ももはや稀薄になっていたといえるかもしれない。
人権裁判所の扱った事件は、1件の国家申立て(1978年のアイルランド対イギリス事件判決)を除きすべて個人申立てに端を発するが、裁判所の設置から20年間は、総数で20件強の判決数にすぎなく、1980年代に入ってようやく毎年の付託数が10をこえるようになり、1990年以降には毎年50をこえる数字を示すようになった。これは、人権委員会による付託数が飛躍的に増えたためであった。こうした人権委員会と人権裁判所の重層的な手続は、申立ての処理の複雑化と長期化を招く余地があるわけで、1件の申立てが裁判所の判決を受けるのに平均5年以上かかるといわれていた。こうした状況では、拡大ヨーロッパを志向する中での条約締約国の増加や個人申立制度への期待の高まりを背景として予想される、さらなる申立ての増加に対応できないことになり、ひいてはせっかく醸成されたヨーロッパ人権条約への信頼を失墜させることにもなりかねない。そこで、効率化と人権保障の質の維持をめざした抜本的な制度改革の必要性に迫られたわけである。
2 人権裁判所の手続
そうした切実な要求を背に、新人権裁判所は活動を開始した。以下では、その手続を簡単に概観してみたい。
人権裁判所は、締約国と同数の裁判官から構成され、裁判官は、締約国提出の候補者リスト(各締約国3名)の中から議員総会によって6年任期で選出される。裁判所は、4つのセクションに分かれ、それぞれに、1年ごとに3名の裁判官から構成される委員会、輪番制で7名構成の小法廷が設けられる。大法廷は、17名の裁判官から構成され、これもふたつのグループがある。裁判所の手続は、対審主義、公開性が原則である。また、法律扶助制度も用意されている。
まず、許容性審査手続である。事務局による非公式のスクリーニング(これを通過した申立てのみが正式に登録される)を経た個人申立ては、いずれかのセクションの報告裁判官による予備審査の後、委員会か小法廷
chamber に付託される。委員会は、全員一致で申立ての非許容を決定することができる。非許容とされなかった申立て、直接小法廷に付託された申立て、そして国家申立ては、小法廷により審理される。小法廷は、条約の解釈に関する重大な問題を生じさせたり、判例法から逸脱する可能性がある事件の場合、当事者のいずれか一方が反対しないかぎり、大法廷
grand chamberに事件を移譲することができる。以上の手続は基本的には書面でおこなわれ、許容性に関する小法廷の決定は多数決による。
次に、本案審査手続である。小法廷は、許容とされた事件に関して、当事者にさらに書面の証拠・意見を提出するよう要請するとともに、公開の口頭審理に出席するよう求める。この手続の間、友好的解決をはかるための交渉も、非公開でおこなわれる。小法廷の判決に対しては、当事者は判決から3カ月以内に、事件の大法廷への付託を請求することができる。5名の裁判官から成る大法廷のパネルがこれを審理し、条約の解釈・適用に関する重大な問題や一般的重要性をもつ重大な争点が生じる場合にかぎって、付託は認められる。事件が大法廷に付託されれば、その判決が最終となる。そうでなければ、小法廷の判決が最終となる。いずれの判決も、多数決によっておこなわれ、最終判決は当事国を法的に拘束する。裁判所はまた、締約国の条約違反の被害者のために金銭補償の命令を下す権限も有する。判決の執行を監視する責任は、閣僚委員会にあり、条約違反の有無に関して決定する閣僚委員会の以前の権限は廃止された。
今後注目されるのは、小法廷から大法廷への事件の付託がどの程度なされるのか(現時点ではほとんどないが)、もしそれが一定程度の慣行になった場合、手続の迅速化に影響を及ぼさないか、また、個人と被告国のどちらに有利に機能するのかという点であろう。
W ヨーロッパ人権条約の意義と課題
人権委員会にしろ人権裁判所にしろ、変化するヨーロッパの社会において生じ続ける新たな人権問題に対して、常に前向きに取り組み続けてきた。それを可能としたのは、精緻な手続と、鞭打ち刑事件判決に端的にみられた条約の解釈態度、つまり法と社会における現在の諸状況に照らして条約を解釈するという方法である。これは、「ダイナミックな解釈」あるいは「発展的解釈」とよばれ、条約機関によるヨーロッパ人権条約解釈の一般的傾向であるといえる。たとえば、条約3条の拷問や非人道的取扱い等の禁止にしても、通常考えられる以上にさまざまな分野にこれらの概念は適用されており、拷問や刑事被拘禁者の取扱いの問題以外にも、前述の法定体罰や学校の体罰、精神医療、外国人の追放や犯罪人引渡し、人種差別などの問題に関連し、広い人権保護機能を果たしてきた。他の条約規定についても、おおむね同様のことがいえる。
そして、こうした解釈方法が一般に受け入れられてきたのは、結局、司法的な条約上の手続のもとで、人権委員会や人権裁判所の法的な現状分析と論理構成が説得力ある洗練されたものであり、しかもそれがケース・ローの体系を形成しうるほどに一貫したものであるからであった。一般的にいって、条約機関は、ヨーロッパにおいて法にかかわる社会状況に変化が起こりつつある場合、当該問題に関連する締約国の国内法や慣行の比較検討の中に共通の基準を見出そうとし、それが可能な場合には、それにより条約解釈の妥当性を根拠づけようとする。つまり、条約機関は、決して法的状況の変化を先導するものではないが、共通の傾向に遅れをとっている国に対しては、一定の改革を促す役割を果たしてきたのである。こうした役割は、新制度のもとでより実効的なものとなることが期待される。
もっとも、新制度における司法的性格の強化により、東欧や旧ソ連邦の諸国を中心とした新たな締約国で生じる人権侵害問題に十分対応できるのか、多少疑問がある。いままでヨーロッパ人権条約の司法的制度が機能していたのは、法の支配や人権尊重に共通の伝統をもつ同質的な西欧諸国を対象版図としていたことが、大きな要因であった。司法的アプローチは、法的解釈が問題となるような人権問題にはひじように有効ではあるが、大規模人権侵害のような政策的組織的な人権侵害には、状況調査や政治的圧力による対応のほうが必要かもしれない。今後、ヨーロッパ人権条約がそうした事態に直面する可能性は、以前よりむしろ大きくなったはずである。その際、人権委員会や閣僚委員会が果たしてきた役割を新人権裁判所が引き受けられるのか。司法的モデルの追求に終始し、政治的装置の再構成・強化に取り組まなかったことを、どういう形でカバーしてゆくのか、新たな実験はまだまだ続くはずである。