[PR]テレビ番組表
今夜の番組チェック

Trans News > Articles > Yomiuri Newspaper "Interview with Sadako Ogata"

[時代の証言者]国際舞台・緒方貞子 (読売 2005/03/02〜04/05朝刊)

updated 2005/04/06


国連難民高等弁務官事務所 (日本)
United Nations High Commissioner for Refugees


2005. 03. 02
(1)地球が仕事場、奔走の日々


 10年ほど前、防弾チョッキ姿で紛争地を歩く小柄な日本女性に、世界はくぎ付けになった。「行動する国連難民高等弁務官」は、英紙タイムズの「世界で最も影響力のある女性10人」にも選ばれた。外交官の家庭に育ち、幼少時代を米国と中国で過ごした。子育てや母の介護もこなしつつ、学界、外交界へと活躍の場を広げていった。地球を仕事場として飛び回る77歳の「行動派」は、国際社会の変化をどうみているか。
     (解説部 永峰好美)

 「ムスメノナマエハ、『サダコ・オガタ』デス」

 アフリカの難民キャンプを歩くと、こんな言葉をかけられます。ルワンダでは、1歳になったばかりのかわいらしい「サダコ・オガタちゃん」に会いました。あちらこちらに10人くらいいるかしらね。アフリカの人には、発音しやすいらしいんです。私の名前を子どもに付けるということは、難民キャンプでの私たちの支援が喜ばれている証しと受け止めていいでしょう。

 国連難民高等弁務官に就任したのは1991年です。ジュネーブの本部に着任した数週間後、クルド難民危機が起こり、あいさつ回りも早々に切り上げて、軍用ヘリに乗って現場に向かいました。それからの10年間、月の3分の2を道中で過ごす生活が珍しくなくなりました。
 
 《国連難民高等弁務官事務所(UNHCR)は、難民の国際的保護と人道援助を通じて難民問題の解決を目指し、51年に設立された国連機関。約120か国に約6000人が働く。その頂点に立つ高等弁務官は、緒方で8代目。就任の前後は、東西ドイツ統一、ユーゴ紛争の勃発(ぼっぱつ)、ソ連邦の崩壊など、国際情勢が激変した》

 最も犠牲が大きく、私が痛ましく感じているのは、94年、アフリカ中部で起こったルワンダ難民の悲劇でしょうか。

 ザイール国境沿いのゴマの難民キャンプは運営が難しく、何度も足を運びました。というのも、難民の中には、大量虐殺に関与した人や兵士、民兵までが混在していたのです。

 「虐殺者まで援助することは倫理に反する」と、NGO(民間活動団体)の「国境なき医師団」などは、キャンプからの撤退を宣言して、私たちのやり方に強く抗議しました。その時、私はきっぱり言いました。

 「引き揚げるならば止めません。民間のあなた方は自由です。でも、国連から難民保護の任務を預かっている私は、主義に反するからと言って、立ち去るわけにはいきません。過半数の女性や子どもたちの命を見捨てることはできないのです」

 今考えても、選択の余地はなかったと思います。あの時一番必要だったのは、一般の難民と、虐殺関与者や兵士とを仕分ける作業でした。私たちには武力はありません。それで、キャンプの中に割って入ってこの作業ができる「監視軍」を出してほしいと、事務総長や各国政府に何度も要請したのですが、かないませんでした。

 《少数派のツチ族と多数派のフツ族の争いが続くルワンダでは、62年、ベルギーから独立後は、フツ族主導の政権が成立した。94年4月、大統領が乗った飛行機の撃墜事件が発端で、内戦が激化。フツ族過激派によるツチ族の大量虐殺が起こった。報復を恐れたフツ族約200万人が、隣国ザイール(現コンゴ民主共和国)などで難民化。日本は国連平和維持活動(PKO)協力法に基づき、救援のために初めて自衛隊を派遣した》

 難民キャンプ内での軍事行動を抑えるために、あらゆる努力はしました。ザイールのモブツ大統領(当時)の優秀な親衛隊1500人と契約し、さらに、親衛隊を監督する警察官を各国から出してもらいました。武器の持ち込みや物資の貯蔵倉庫の襲撃に目を光らせ、故国に戻りたい難民を国境まで安全に送る役目もお願いしました。1年目は効果があって静かになったのですが、キャンプの外で、モブツ政権に反乱する軍事行動が起こり、機能しなくなりました。

 もしも国連軍が出ていたら、状況は変わっていたとは思います。戦闘員を武装解除させて隔離するなど、できたはず。ただ、この地域の対立に主要国はかかわりたくなかったのです。「介入しないと紛争が広がる」と、もっと強く政治的な訴えをすべきだったかもしれません。実際、紛争は拡大してしまいました。

 私が初めて難民に出会ったのは、79年、日本政府のカンボジア難民救済視察団の団長を頼まれ、タイとの国境を視察した時でした。それから10年余りたった90年10月、国連人権委員会の特別報告者としてミャンマーを訪れ、軍事政権下の人権弾圧を調査していました。

 たまたま聴いた英語のラジオニュースで、当時の難民高等弁務官、トールバル・ストルテンベルグさんが本国ノルウェーの外相に就任するため辞任したことを知り、驚きました。まだ任期が3年も残っていましたから。その前の方は不祥事でお辞めになっているし、これでは職員の士気が落ちるばかりで、かわいそうにと思ったんです。

 帰国後まもなく、もっと私を驚かせることが待っていました。11月12日は天皇陛下の「即位の礼」で、私もお招きにあずかりました。海外からたくさんの重要なお客様がいらしていて、難民高等弁務官の後任人事が話題に上っていました。

 《皇居で行われた即位の礼には、約160の国や国際機関の代表が参列し、活発な祝賀外交が展開された。8月に起きたイラクのクウェート侵攻で緊迫する中東湾岸情勢が最大のテーマ。UNHCRの人事については、米国から外務省に、日本も立候補したらどうかと打診があったという》

 外務省が、私を公認候補にしたいと言ってきた時、「日本はもっと国連ポストに人を出すべきです」が持論でしたから、「私はイヤです」とは言えませんでした。子育ても介護も終えて、うちの仕事は楽になっていましたので、「名前だけでも入れておきましょうか」と、お受けしたんです。ただ、「旅行が多いのは困ります」と、注文は付けました。就任して、こんなに世界を飛び回るなんて、その時は思ってもいませんでした。

 立候補者は15人以上いて、欧米の閣僚級の大物もいました。人数が絞られたころ、アメリカの人権委員会の代表が「事務総長に会いなさい」と、私を強力に推してくれまして。一度だけニューヨークに行って面接して、アジア出身者では初の高等弁務官だったイランのサドルディン・アガカーンさんにも相談しましたら、「やればいいじゃないか」と言われた。それで、最終候補3人のうちの1人に残った時には、「ここまできたら負けたくない」と、俄然(がぜん)ファイトがわいてきました。

 師走も押し迫り、デクエヤル事務総長から直接電話があり、決まりました。当時私は上智大学の外国語学部長で、ゼミで学生の面倒もみていました。仕事に何とか区切りをつけ、翌年2月、ばたばたと単身ジュネーブにたったのです。(敬称略)

 ◇おがた・さだこ 77歳 1927年(昭和2年)東京生まれ。曽祖父は犬養毅元首相、祖父は芳沢謙吉元外相。聖心女子大卒業後、米カリフォルニア大学バークレー校で博士号取得。国際基督教大準教授、国連公使、上智大教授を経て、91年から10年間、国連難民高等弁務官を務めた。2002年のアフガニスタン復興支援会議では議長として、国際社会から45億ドルもの巨額資金を集めることに成功した。2003年10月から国際協力機構(JICA)理事長に就任。今月、難民高等弁務官時代の10年をまとめた初の回想録を米国で出版する。

 写真=(上)毎日決裁しなければならない書類が山のようにある。国際協力機構の理事長室で(2004年12月) (下)95年、ルワンダ難民キャンプを訪問。子どもたちの歓待を受ける(UNHCR提供)


2005. 03. 03
(2)国内難民の保護、先例つくる


 私にとって難民保護は初めての仕事でした。教師の習性でしょうか。就任早々、あらゆる職員に質問を浴びせていたからか、「新しい難民高等弁務官は何でもよく聞く人だ」とうわさが広まっていたようです。

 1991年4月、イラク北部でクルド人の問題が起こりました。

 《イラクのフセイン政権下で迫害を受けていたクルド人が、政府軍に追われて、隣国のイランとトルコに流出。だが国境地帯は険しい山岳で、逃避行中の寒さや疲労から、毎日数百人の死者が出ていた》

 すぐにジュネーブの本部をたち、軍用ヘリで国境地帯の状況を見に行きました。険しい山沿いの道に、人でぎゅうぎゅう詰めのトラクターがびっしり並んでいました。その数の多さに、私は息をのみました。

 ところが、トルコは国内にクルド人反政府勢力との問題を抱えていることから、クルド難民の受け入れを拒みました。難民の入国拒否などを禁止している難民条約の原則からみれば、許されないことです。とはいえ、NATO(北大西洋条約機構)各国も、トルコ情勢が不安定になっては困るという極めて戦略的な理由から、同盟国のトルコに同調していました。

 米欧軍は、地形の緩やかなイラク側に「安全地帯」をつくって難民キャンプを設営する案を出してきました。つまり、国外に脱出して難民としての保護を求めようとしている人たちを、自国の中に引き留めて、生活再建に向かわせようというわけです。

 伝統的な難民保護の考え方からいえば、非常に危険なことでした。人々が国境を越えて逃げて来るのを待つのが、UNHCR(国連難民高等弁務官事務所)の基本姿勢でしたから。内部でも、法務官をはじめ多くの人が反対しました。

 迷いました。トルコのオザル大統領と随分交渉もしました。でも、一番大切なことは何かと考えた時、目の前で苦しんでいる人たちの命を救うことでしょう。米欧軍も動き出していたし、現実的な解決策を選ぶしかなかったのです。

 私たちは、米欧軍の協力を得てイラク側にキャンプをつくり、山を下って自国内の「安全地帯」へ帰る難民の援助を始めました。軍の存在で安全が一応保障されていると感じたのでしょう。トルコ側に向かっていた難民は自主的に帰還し、イランに逃げていた人も帰ってきましたから、結果的には成功でした。

 《「この決断は、UNHCRの難民保護のあり方を変えた。緒方が下した最も重要なものの一つ」と、ジェラルド・ワルツァー副高等弁務官(当時)は評価している》 (敬称略)
 
 写真=イラク・イラン国境付近に、クルド難民を訪ねた(UNHCR提供)


2005. 03. 04〜06 休載


2005. 03. 07
(3)人道援助、政治利用させぬ


 ボスニア・ヘルツェゴビナの首都サラエボで、人道援助活動を一時停止したことは、国連を揺るがす事件として、すっかり有名になってしまいました。

 あれは、私の怒りだったのです。「人道援助が紛争の政治的駆け引きに利用されることを、国際社会は断固許してはならない」と、思ったからです。

 《1991年6月、バルカン半島のユーゴスラビア連邦が分裂、内戦が起こった。93年2月、ボスニアでは、セルビア人勢力が同国の制圧を狙って、東部に住むイスラム教徒への援助物資の搬送など国連の救援活動を妨害。これに反発したボスニア政府(イスラム勢力)は、イスラム教徒の多い首都での援助物資受け取りをボイコットし、同胞を巻き込んだ“断食作戦”に出た》

 国連と欧州共同体(EC)が、今後の同国のあり方を議論している時でした。ボスニア政府の行為は、一般市民を犠牲にして国際社会の注目を集めようという、政治的なものでした。

 その結果、何が起こったかというと、空輸した食糧などの援助物資がサラエボ空港に山積みされたままになってしまった。援助を必要としている人の手元に届かないのでは、話になりません。

 「援助活動を行っている国連や国際社会に対する挑戦ではないか」と、私は相当怒ったわけです。それで、「物資の輸送など人道援助活動をすべて一時停止する」と、発表しました。

 波紋は予想以上に大きかったんです。「一難民高等弁務官が、和平交渉に影響のある決断をしていいのか」「事務総長は緒方に勝手なことをさせている」など、国連安全保障理事会でさんざんたたかれました。

 その時、ガリ事務総長は来日中で、総長特別代理には相談したのですが、伝わっていなかったのです。あまりニューヨーク(国連本部)が騒ぐので、総長も「命令しないことはやっちゃいかん」みたいなことを言ってきました。

 《欧米各紙は「指揮は私がとる。援助再開するように緒方氏に指示した」とのガリ総長の発言を報道。総長と高等弁務官の対立をめぐり、「緒方氏は辞任を考慮か」などと伝えた》

 停止から数日後、援助を再開させました。事務総長からの要請というよりも、イスラム教徒の窮状を世界に知らせた効果があり、セルビア側が妨害を緩めたため、ボスニア政府が再開を求めてきたのです。やはり援助を必要とする人がいるわけですから。

 職員からも「やりましたね」と励まされました。ただ、コミュニケーションをもう少しよくする必要はあったと、そこだけは反省しています。
 
 写真=「弾丸通り」といわれるサラエボの視察では、ヘルメットと防弾チョッキが必需品だ(UNHCR提供)


2005. 03. 08
(4)米で幼少期 夢は天文学者


 外交官の父(中村豊一・元フィンランド特命全権公使)に連れられて、3歳から8歳まで、米西海岸のサンフランシスコとポートランドで過ごしました。

 ポートランドで通ったのは進歩的な私立小学校で、ちょっとユニークな教育を受けました。詩を読んだり、天体の勉強をしたり。子どもの想像力をいかに伸ばすかが工夫されていたと思います。夜空の星を見上げながら、「大きくなったら天文学者になりたいなあ」と、考えたりしたものです。当時の同窓生とは、今もお付き合いがあります。

 1935年(昭和10年)、父の転勤で、中国の福州、広東をまわり、一度日本に戻って、また香港に1年ほどいました。

 中国で通ったのは日本人学校で、勉強もそれほど忙しくない。帰宅すると、テニスやスケート、水泳など、遊んでばかりいました。

 ただ、教育熱心な父は、日系アメリカ人2世の女性を私たちの養育係にして、赴任先に同行させていました。せっかく覚えた英語を忘れないようにと思ったのでしょう。弟や妹との会話は英語でした。今振り返ると、あの親心はありがたかったですね。

 9歳の夏休み、家族で一時帰国した時です。東京に向かう船の上で、父の友人が「大きな事件が起こりましたね」と言っていたのを覚えています。

 《37年7月7日、盧溝橋で日中両軍が衝突。戦火は華中、華南へと拡大した。翌38年10月、日本軍は広東作戦を展開し、中国国民政府が香港・広東から物資を補給するルートの封鎖を狙った》

 広東攻略の時は香港にいて、遠くで銃声がズドンと響いたことを記憶しています。各国の外交団と家族が住むのは山の手でしたが、もう自由に歩き回ることはできませんでした。

 父は香港総領事で、「宇垣交渉」など担当しました。

 《陸軍の長老、宇垣一成大将はその政治手腕を期待され、38年5月、近衛改造内閣で外相に就任。泥沼化する日中戦争の収拾に向けて和平工作の任にあたった。翌月、中村総領事と国民政府行政院長・孔祥煕(こうしょうき)の秘書の間で接触が始まった。だが、宇垣の姿勢は陸軍の対中強硬論から脱せず、交渉は決裂した》

 広東攻略のあと、母と私、弟と妹は日本に戻りました。父はその後汪兆銘(おうちょうめい)の南京政府で、日本大使館の参事官として、日中関係の修復のため様々な交渉をしました。大変な時代でしたが、外交官としてはやりがいがあったのではないかと思います。
 
 写真=米ポートランドの学校では、のびのび育った


2005. 03. 09
(5)曽祖父・犬養毅、凶弾に


 曽祖父(犬養毅元首相)が軍人に殺されたというのは、我が家にとって大変な出来事でした。

 《1931年(昭和6年)、満州事変がぼっ発。同年末、犬養を首班とする政友会内閣が発足した。翌年5月15日、官邸と棟続きの公邸で、犬養は、国家改造のため決起した海軍青年将校らの一団に襲撃され、銃弾に倒れた》

 当時私は外交官の父と一緒にアメリカで暮らしていて、直接の記憶はありません。でも、父も母も曽祖父をものすごく尊敬していましたから、事件の知らせを受けて、家の中が騒然としたことを覚えています。

 随分昔になりますが、新築前の首相官邸に初めて足を踏み入れた時には、ちょっと嫌な感じをもちました。ああ、ここで曽祖父は殺されたのか、と。その時の血染めの座布団などの遺品は、岡山市の犬養木堂記念館にあります。私も曽祖父が愛用していた中国・威海衛(いかいえい)の石でつくったすずりを形見に持っております。

 中国にいた時、夏休みに帰国して、曽祖母の家に遊びに行きますと、親類など大家族が集まっていました。「陸軍が力をつけてきて大変だ」「日中関係が悪化していくのが心配だ」などと、大人が話していたのを小耳にはさんだ記憶があります。男も女も、政治の話がとても好きな家族でした。

 曽祖父は、辛亥(しんがい)革命を支援し、孫文の亡命を助けました。フィリピン独立運動の闘士、エミリオ・アギナルドとも親交がありました。アジアの人々とともに雄飛したいと考えていた、アジア主義者です。

 祖父は、満州事変当時は駐仏大使でしたが、漢口総領事や北京特命全権公使など、中国との縁が深い。犬養内閣の外相に就任してからは、軍中央部と交渉し、満州国の独立を延期することに奔走しました。父も、対中国の和平工作をしたり、南京で軍部の行動に頭を悩ませたりしていました。日本にとって中国との関係が最も大事だという認識は、我が家に代々伝えられ、染みついている気がします。

 カリフォルニア大学で取った博士号(政治学)の論文テーマには、「満州事変」を選びました。それが日本の針路の転換点になったと考えたからですが、やはり家庭環境の影響もあったと思います。

 《論文タイトルは「満州事変と政策の形成過程」。64年に米国で出版(原文は英語)、66年、翻訳が出た。その中で、「犬養は中国人指導者と個人的接触も多く、(事変の解決のため)中国人を離反させるような横暴かつ軽率な行為には反対した。関東軍の計画と当然相容(あいい)れないものだった」と分析している》(敬称略)
 
 写真=犬養家に集まった一族。右端のひげの男性が曽祖父。左端が父、一番手前にいるおかっぱ頭が2歳の緒方


2005. 03. 10
(6)テニスに熱中した大学時代


 日本に戻ったのは小学5年の時で、聖心女子学院に転入しました。日本の学校は行儀がいいので、緊張して、教室で手なんかもさっと挙げないようにしていました。ボール遊びや乗馬が好きなおてんば娘で、一番好きなのは運動会でした。

 それから大学を卒業するまで、日本で教育を受けることができたのは、とてもよかったと思います。国際的な仕事をする者にとって必要なのは、母国の文化をしっかり身につけていることだと、私は考えます。

 終戦は17歳の時、長野・軽井沢で迎えました。1945年(昭和20年)3月10日の東京大空襲で、田園調布の自宅の隣まで焼けました。ちょうど女学校を卒業したので、家族皆で軽井沢に疎開していたのです。

 軽井沢の三笠ホテルに外務省の分室がありました。(戦争当事国以外の)第三国の外国人が結構住んでいて、彼らと交渉する外交官の秘書のようなアルバイトをしていました。

 《旧三笠ホテルは、日本郵船などの重役を務めた山本直良が、1906年(明治39年)に開業。シャンデリアの電灯、英国製カーペットなどを導入し、「軽井沢の鹿鳴館」と呼ばれた。80年に国の重要文化財に指定された》

 終戦の詔勅を家族そろって聞いた時、祖母がはらはらと涙をこぼしたことが印象的でした。父も祖父も外交官ですから、終戦事務のために、まもなく東京に戻りました。私も帰京して、裁縫などのけいこ事をして、それから聖心女子学院の専門学校に入学。48年、新学制の実施で女子大学になったので、移りました。

 戦争が終わった解放感もあって、大学の雰囲気はとても自由でした。初代学長は、アメリカ人のマザー・ブリットといいました。「女性は結婚するといろいろなことがあるから、今は好きなだけ勉強しなさい」と薫陶を受けました。

 敗戦直後ですから、やはり戦争の原因に関心が向いて、私は国際政治史を勉強することにしました。

 とはいえ、大学時代に一番真剣にやったことといえば、テニスです。全日本選手権にも出場して、シングルスでベスト16に、ミックスダブルスでは、準決勝まで進んだこともあります。これは、パートナーがよかったからですが。日本女子テニス連盟会長の宮城黎子さんとは、今秋にゲームをする約束をしています。

 《難民高等弁務官時代は、ジュネーブで毎年「緒方杯」を開催、エキシビション・ゲームで腕をふるった。「ミセス・オガタのプレーには舌を巻いた」と職員たちは振り返る》

 負けん気が強いですから、やっぱり勝ちたい。最近は頭で描くように打てないのが悩みです。(敬称略)
 
 写真=聖心女子大学を卒業のころ


2005. 03. 11〜14 休載


2005. 03. 15
(7)米へ留学 日本見つめ直す


 アメリカへの留学を一番勧めたのは父でした。二つ下の弟はすでに留学していました。子どもたちに勉強してもらうのが好きだったんでしょうね。

 1951年(昭和26年)、ロータリー財団の国際親善奨学金で、ワシントンのジョージタウン大学に渡りました。国際関係論を学んで修士号を取りました。

 アメリカの大学は大量の本を読ませます。テニス好きの私は、新しいラケットを2本持参したのですが、勉強に追われてほとんど使わずじまいでした。

 《戦後の日本から米国への留学は49年、米政府主催のガリオア留学生が最初。52年、日米教育交流計画(フルブライト計画)が始まった。ほかに民間の奨学金制度があり、ロータリーは緒方で2人目。全国で合格者1人の難関だった》

 渡米した時は、サンフランシスコの対日講和会議の最中でした。私は「小さな親善大使」という感じで、各地のロータリークラブ会員の家に招かれました。当時のアメリカは自信に満ちていました。「アメリカをよく知れば、あんな戦争を起こすことはなかった」というメッセージを、日本人の私は受け取りました。普通の人が大きな車で通勤していて、日本はいつ、こんなぜいたくができるのだろうかと思ったものです。

 私たち昭和ヒトケタ世代の関心は、「なぜ日本は戦争への道を突き進んだのか」の解明にありました。海外に出て日本を見つめ直したからでしょう。日本の政治外交史を勉強する必要があると考え、帰国後、東大の岡義武先生の指導を仰ぎました。

 2度目のアメリカ留学は56年、西海岸のカリフォルニア大学バークレー校に学びました。アジア研究で著名なロバート・スカラピーノ教授がいらしたからです。政治思想史の理論などを研究しました。

 当時、日本から持ち出せるお金は限られていました。教授の助手になって、手当をもらいながら勉強を続けました。2年で博士号取得の資格試験に合格しなければならないので、もう必死で。人生で一番勉強した時期だと思います。

 《56年、ハンガリー動乱が起こった。ソ連支配に反発する民衆蜂起(ほうき)だった。ソ連軍は強硬に鎮圧、20万人以上が国を去った》

 バークレーの町にも、ハンガリー人が移り住んできました。そのころのアメリカは、優秀な学者や志のある学生の亡命をどんどん受け入れていました。世界の政治変動を身の回りの出来事として意識させるエキサイティングな国に、私はとてもひかれたのです。

 58年、父が脳いっ血で倒れて、急きょ帰国することになりました。(敬称略)
 
 写真=最初のアメリカ留学(1952年)。桜並木を歩く3人の中央が緒方


2005. 03. 16
(8)結婚 両家の父、戦中に接点


 帰国して父の病状が安定したので、博士論文に取りかかることにしました。

 「戦争で、日本は自らを破滅に導くような政策をなぜとったのか」と、私はずっと考えていました。昭和初期でテーマを探したのは、国内ではファシズムが台頭し、国外では大陸への進出が顕著になった興味深い時代だからです。

 博士論文には、新資料の発掘か理論の新しい解釈か、どちらかが必要です。元関東軍参謀の片倉衷(ただし)の日誌を読む機会があり、「満州事変」に絞りました。

 《片倉は事変当時、最年少の関東軍参謀見習。満州国建国(1932年)後、経済発展に向けて実務指導にあたった。「片倉日誌」の正式名は「満州事変機密政略日誌」。緒方が閲覧した59年当時は未刊行》

 和とじ5冊の手書きの日誌を毎週1冊、片倉さんから拝借するたびにご自宅を訪ね、話を伺いました。お茶を飲んで、じっくりと。

 日誌に加えて、事変当時の外務省と国際連盟政府代表との往復電報も見ることができました。祖父(芳沢謙吉元外相)は、日本の連盟脱退時の政府代表、松岡洋右の前任者です。連盟理事会では、しばしば一人矢面に立たされることがあって、晩酌をしながら苦労話を語ってくれました。

 論文を書き終えたころ、アメリカ留学から帰ったばかりの日銀マン、緒方四十郎と知り合い、結婚しました。当時33歳、同い年です。偶然なのですが、私の父と主人の父は、戦時中のある時期、対中和平工作をめぐって接点があることを後になって知りました。

 《四十郎の父は、朝日新聞出身で、小磯内閣で国務相を務めた緒方竹虎。蒋介石の重慶政権に働きかけて戦局を打開しようと、重慶側に通じていた繆斌(みょうひん)を東京に招き、日本軍の中国全面撤退などを提案したが、失敗。貞子の父、中村豊一も香港総領事時代、違うルートで重慶政権との和解工作を試みた》

 主人と私の両家を合わせると、昭和史の埋もれた部分が掘り起こされるかもしれない。いつか「私たちの昭和史」を書こうと話し合っていました。主人は先日、「遥(はる)かなる昭和――父・緒方竹虎と私」を出版しましたが、私の方はまとまった時間がなくて……。

 61年に長男が生まれ、博士論文をカリフォルニア大学バークレー校に提出したまま、口頭試問を受けられずにいました。翌年、主人がロンドンへ転勤になったので、アメリカで“途中下車”してインタビューを受けることにしました。留学時代の友人が、よちよち歩きの息子のお守りをしてくれて、思い出深い試験になりました。(敬称略)
 
 写真=博士課程を学んだ米カリフォルニア大学バークレー校


2005. 03. 17
(9)国連代表団入り「本当に偶然」


 初めて国連の仕事をしたのは1968年(昭和43年)の秋です。日本政府代表団の一員として、国連総会に出席しました。

 その年の夏休み、市川房枝先生が軽井沢の家に訪ねて来られて、「代表団にぜひ加わるように」と、打診されたのです。

 《日本の国連加盟が承認された56年以降、市川を中心とする女性団体は、国連総会の政府代表団に女性を参加させることを政府に要望してきた。翌57年、藤山愛一郎外相の主導で、日本婦人有権者同盟会長の藤田たきを任命。紅一点というだけでなく、民間人としても初めてだった》

 その年は、たまたま誰も都合がつかなかったらしいんです。国際関係が専門で、英語も話せるということで、久保田真苗先生(元経済企画庁長官)が私を推薦されたんじゃないかと思います。市川先生とは面識がありませんでしたし、本当に偶然。世の中は偶然の重なりばかりですね。

 それから、うちは大変な騒ぎでした。上の息子は小学生になったばかり、下の娘はまだ一つ。母親の私が3か月間も留守できるだろうかって。でも、「せっかく勉強してきて、いいチャンスだから、行かせてあげたい」と、私の両親も主人も賛成してくれました。

 子どもたちを里に預け、主人は時々通っていました。両親は、旅立ちの荷物の中にきれいなブローチを入れてくれまして。「よくここまで頑張ったね」と評価してくれたのでしょう。

 夫の転勤先のロンドンから戻った私は、当時、国際基督教大学(ICU)の非常勤講師として、学部で外交史、大学院で国際関係論を教えていました。

 2人目の子どもが生まれて、子育て優先の生活でした。「勉強するのはいいことだ」と応援してくれていた父も、「それは職業でなく、アボケーション(副業)として考えなさい」といつも申しておりました。父の世代では、家庭をもった女性が、職業として大学の先生を選ぶのは無理だと思ったんでしょうね。

 そうはいっても、講義の準備はきちんとしないと気がすまない性分です。週1回でも、私にとっては大仕事。外出のために頼んだお手伝いさんの都合がつかなくなったり、子どもが発熱したり、予期せぬことも何度か起こりました。

 ICUは少人数制で、学生の質も高かった。学生の質問から改めて考え、学ぶことがたくさんありました。67年、大学紛争で封鎖された時は、大学院のゼミを我が家でやったこともありました。

 講師の給料は家政婦さんより低くて、経済的にはマイナスでした。でも、細々とではあるけれど仕事を続けたことはよかったと思っています。(敬称略)
 
 写真=1968年、国連総会の政府代表団に初めて参加した時、本社のインタビューに答えて


2005. 03. 18
(10)中東巡る激論、目の当たりに


 1968年、初めて国連総会に出席して、あらゆる問題がいかに政治的に扱われるかを、実地で勉強することができました。

 担当した第3委員会は、人権や社会問題を討議する場。イスラエル占領地の人権状況を調査するため、総会議長が「3人委員会」を任命、派遣するという決議案をめぐり、イスラエルとアラブ諸国の激しい議論を目の当たりにしました。

 投票に際して、イスラエル代表からは再三、反対または棄権してほしいという働きかけがありました。でも、外務省からの訓令に従って、賛成票を投じました。日本のアラブ寄りの外交姿勢は、73年のオイル・ショック以降に始まったのではなく、この時点ですでに打ち出されていたというのが、私の印象です。

 《第3次中東戦争で、67年、イスラエルはパレスチナの西岸、ガザを占領。決議案は、賛成60、反対22、棄権37で採択された。その後、調査団が任命されたが、イスラエルは占領地への立ち入りを許可せず、国連に提出された報告書は、国外にいる占領地出身者の証言など2次資料で作成されるにとどまった。中東和平会議以降も2002年、西岸のパレスチナ自治区ジェニン難民キャンプで虐殺疑惑が表面化。緒方も、真相を究明する国連調査団に加わったが、イスラエルの反発で現地入りを拒否された》

 毎日討議ばかりの3か月でしたが、友人もいっぱいできました。今でもよく思い出すのは、西アフリカ・オートボルタ(現ブルキナファソ)代表だった青年外交官のこと。きりりと引き締まった顔が印象的でした。フランス語はもとより英語も堪能で、議事運営にすごくたけていました。いろいろな手法で議事を動かし、自分の有利な方にもっていくんです。国連の会議では、小国でも代表がしっかりしていると、大国以上に存在感があるものだと実感したものです。

 翌年も、外務省から「ぜひ政府代表団に参加を」と誘われたのですが、子どもが小さいからとお断りしました。「3か月は長い。(海外出張するのは)もういいだろう」という雰囲気が家族にありました。

 それでもまだ、外務省が「ぜひに」と声をかけて下さるので、70年に「もう一度だけ」という約束で出席したんです。

 その後、主人が地方に単身赴任し、私も、子育てに手がかかるからと、それまで引き受けるのをためらっていた国際基督教大学の准教授の職に就きまして。とても家を空けられるような状況ではなくなったんです。それで、しばらくは国連の場に出ることはありませんでした。(敬称略)
 
 写真=国連総会は、政治を実地に学ぶ格好の場だった


2005. 03. 19〜21 休載


2005. 03. 22
(11)国連公使で外交の人脈作り


 国連の日本政府代表部公使の話がきたのも、偶然でした。主人がニューヨークに転勤になり、下の娘も小学校に上がって、家族全員で渡米できる環境が運良く整ったんです。「それなら行けるでしょう」と、また外務省が言ってきたわけです。1975年は「国際婦人年」で、世の中、「女性、女性」と大騒ぎしている時でもありました。

 《国際婦人年は、「女性の地位向上のため世界規模の行動を」という国連の提唱で設けられ、同年、第1回世界女性会議がメキシコ市で開催。その後日本でも、市川房枝ら女性議員が「外交官の上級ポストに女性を」と政府に迫り、当時の宮沢喜一外相が検討を約束。翌年2月、緒方の国連公使起用が決まった》

 仕事をこなすだけの準備はできていたと思いますが、ある意味で、時代の波に乗っちゃったんです。77年、国連総会に来られた福田赳夫首相が、「あなたは今までどこにいらしたのか?」とお聞きになるので、私は「台所から出てきました」と答えました。「そんなことないでしょう」と笑われましたが……。

 勤務先の国際基督教大学には長期休職届を出して、ニューヨークに赴任しました。そこは、まさに国連外交の生きた教室でした。

 会議外交は、やはり人です。決議案にどの国がどういう形で投票するか、共同提案国になる場合、どこにどう働きかけてまとめるか。そんな仕事が多いわけです。人を知らないと情報が入ってきません。

 今はベテランになりましたから、いろいろな人が向こうから言ってきます。でも、最初は、こつこつ信頼関係をつくっていかねばなりません。あの人はこの問題について情報があるとか、政府代表でも政府の主張だけを繰り返すのでなく、独自の判断力があるとかね。そうした品定めは大事です。「何かあったら緒方のところに行こう」という信用を得ないと、政府代表の役割は限られてしまいます。

 《78年、国連安全保障理事会の非常任理事国選挙で、日本はバングラデシュに敗北を喫した。国連分担金拠出3位の経済大国がなぜ小国に負けたのか、話題になった。欧米メディアは、選挙前に特定国の不興を買うのを避けて、総会や委員会の決議案に棄権を重ねる日本政府を批判した》

 米国政府代表部の友人は、「安保理では態度を明白にしなければならない。日本の外交姿勢から察すると、出ない方が楽なのではないか」と言ってきました。私はその時、「日本も常任理事国になって、選挙に煩わされずに、堂々と言いたいことを言いたいものです」とやり返した記憶があります。(敬称略)
 
 写真=娘(左から2人目)が小学校に入学した1974年に撮影した家族写真


2005. 03. 23
(12)国連人事に強い政治配慮


 国連公使になる前、私は、社会・人権問題を扱う第3委員会という限られた場しかみていませんでした。女性が3分の1を占める委員会で、各国とも、女性はそこに出しておけばいいという雰囲気がありました。公使になったからには、女性にとらわれず、いろいろなことにかかわりたいと思いました。

 1976年夏から3年間、ユニセフ執行理事会の日本代表を務めたことは、開発援助事業という未知なる分野への挑戦でした。

 《46年設立のユニセフは当初「国連国際児童緊急基金」といい、大戦後の疲弊した社会に苦しむ連合国側の子どもを支援するのが目的だった。53年に「国連児童基金」に改称、途上国の子どもへの福祉対策を立案・実施する国際機関として再出発。国連経済社会理事会が任命した36か国の執行理事会が運営している》

 何をどう援助したらいいか、現場に行かないとわからない。私はユニセフの仕事からそれを学びました。

 子どもに栄養を補給しようとしても水がない。汚い水で粉ミルクを溶かせば、病気を引き起こす。まず、きれいな水を確保しなければなりません。タイ北東部の貧困地帯では、井戸を掘った後、それを維持・管理する人を村人から募り、医療知識を含めて訓練する。そんな地道な試みを積み重ねたものです。

 78年、執行理事会の議長に任命されてほどなく、事務局長人事にかかわるというえらいことがあって、それは、とても大変でした。

 《ユニセフ、世界銀行、国連開発計画という国連の3大援助機関の最高ポストは、長年、米国に独占されていた》

 事務局長の任命は、事務総長が執行理事会の意向をくんだ上で、総会で決まります。スウェーデンは、ミシャネック海外援助庁長官という有力候補を理事会代表に送り込んできました。米国も、グラント海外開発協会会長を代表にし、ユニセフへの拠出金を増やしました。米国は、国連離れが目立つ世論や議会の支持を保つためにも、同国で最も支持されている国連機関のポストを手放すわけにはいかなかったのです。

 任命時期が近づくと、米国はカーター大統領、スウェーデンは北欧外相会議などを中心に、事務総長に猛烈な働きかけを繰り返しました。私は私で、理事会の有力メンバーの考えを聞いて、人選を固めました。

 結局、米国がポストを得て、スウェーデンには、従来米国が占めていたパレスチナ難民の国連救済事業機関の事務局長ポストが提供されました。国連人事には高度な政治配慮が働くことを、私は実地で学びました。
   
 写真=78年、ユニセフ執行理事会の議長に選ばれたころ(ロイター)


2005. 03. 24〜27 休載


2005. 03. 28
(13)「難民」で世界の現実知る


 難民問題と初めてかかわったのは1979年でした。3年間の国連公使の任務を終えて日本に戻り、関西で講演をしていた時、外務省から電話がありました。政府が派遣する「カンボジア難民救済調査団」の団長を頼まれたのです。11月半ば、数日間の準備であわただしく出かけました。

 《75年のベトナム戦争終結と前後して、インドシナ3国(ベトナム・ラオス・カンボジア)から難民の流出が続いた。78年末、ベトナムがカンボジアに侵攻。戦渦と食料不足にあえぐカンボジア難民が隣国タイに押し寄せた。当初タイ政府は難民を強制送還していたが、人道的見地から、79年9月以降、無制限に受け入れる方針に転換した》

 タイの首都バンコクの北東250キロの国境地帯は、人があふれていました。あんなにたくさんの人が集まっているのを見たのは、初めてでした。

 そこから東に行くと難民キャンプがあって、約3万5000人が暮らしていました。ようやく国境にたどり着き、皆飢えでふらふらなんです。それでも、子どもたちは缶けりをして遊び回っていた。子どもは回復が早いなと思いました。

 タイのクリアンサク首相を訪問すると、「タイは小さくて貧しい国だ。難民を無制限で受け入れるのは多大な負担で、国際的な支援によるところが大きいことをご理解いただきたい」と言われました。

 4日間の視察を終えた調査団は、出発を待つバンコクの空港待合室で、日本ができる緊急援助の大筋をまとめました。柱になったのは、医師・看護師の派遣と給水事業。副団長の三宅和助・アジア局次長ほか、調査団の外務官僚は、行動力のある人ばかりでした。帰国して1か月もたたずに三つの医療チームが結成され、「役所仕事がこんなに早く進むのをみたことがない」と、周囲から驚かれたものです。

 《難民受け入れに対する日本の消極姿勢に米国などから批判が強まり、日本政府は、調査団派遣と前後して、79年、海外の難民キャンプにいるインドシナ難民を対象に500人の定住枠を設定。日本語教育や就職あっせんをする定住促進センターを開設した》

 日本人はインドシナ難民に出会い、世界の動きを初めて現実のものとして感じたのではないでしょうか。

 最近、「国内に難民や外国人が増えたら危ない」なんて言っているのには、驚くばかりです。日本人は恵まれすぎているんです。島国だからある程度安全で、教育レベルも高くて、皆が同じと思っている。異質なもの、多様な存在への配慮とか尊重とかをもう少し育ててほしいですね。
 
 写真=政府の調査団長として、タイのカンボジア難民キャンプを訪れた(79年、AP)


2005. 03. 29
(14)女性の人生、長期戦で構えて


 国連の中で人権分野ほど、政治的に扱われる問題はないでしょう。1982年、日本政府は初めて国連人権委員会の委員国になりました。私は、上智大学国際関係研究所(03/06/30閉所―引用者注)の教授に迎えられていました。

 当時、日本が委員国になるのに及び腰だったのは、日本人がきまじめだったからだと思うんです。戦争中に、憲兵による拷問とか慰安婦問題とかありましたでしょう。アジアの人々の人権を蹂躙(じゅうりん)したという思いがあって、一人前に人権をああだこうだいうのはおこがましいと、考えていたんです。それだけ歴史が近かったんでしょうね。

 《国連人権委員会は、国連憲章に基づいて経済社会理事会の下に設置された機関。地理的なバランスに応じて、理事会から選ばれた53か国の政府代表で構成され、人権条約案の起草作業や各国の人権状況の検討が行われる。東西対立が続いた80年代前半は、戒厳令下のポーランドの人権侵害などが討議された》

 私が人権委員会の初代日本政府代表に任命されたのは、国連の人権外交に対する専門性が多少あると思われたからでしょう。それから4年間、大学の春休みの1か月を利用して、ジュネーブの国連欧州本部に通いました。すでに日本は国連でも有力国でしたから、委員国になったことはよかったと思います。

 教鞭(きょうべん)をとっていた上智大学は女子学生が多く、しばしば、女性が社会で働き続ける上での困難をどう克服すればいいか、という質問を受けました。

 私自身、家庭をもつ女性ゆえに、スタートから随分と男性に後れをとったという思いはあります。博士号を取ったのは36歳で、非常勤講師の口もそう簡単に見つかりませんでした。国連で常勤の仕事をしたのは48歳からです。

 女性が子どもを産み、育てることは、キャリアを重ねるうえでハンデになることもあります。でも、女性には男性とは違うサイクルがある。ですから、あせって目標を決めないで、人生ゆっくり生きながら、長期戦で構えた方がいいというのが持論です。

 80年代半ば、3年ほど母の介護に忙殺された時期があります。仕事をしながら、介護の人をお願いしたり、入院させたりと、それは大変でしたが、人生にはそういう時もあるのです。母をしっかり見送れたことで、悔いはありません。

 数年後、国連難民高等弁務官の話があった時、大変な時期をみていた家族が真っ先に、「もう家のことは気にせず、仕事だけに専念してみては」と、私の背中を押してくれました。
   
 写真=特別報告者として、ミャンマーの人権状況の調査に入った(90年、ロイター)


2005. 03. 30
(15)現場で鍛えられた決断力


 10年に及ぶ国連難民高等弁務官を退いたのは2000年末でした。就任直後、国連本部の管理局で、「UNHCR(国連難民高等弁務官事務所)は行政裁判が最も多い」と言われ、えらいところに来てしまったと思いました。十数件あったのが、辞めた時はゼロ。それは相当大変なことでした。

 国連職員にも、私腹を肥やしたり、やるべき対応をしなかったり、問題を起こす人がいます。無能な人は取り換えればすみますが、汚職は、最終的に、私の監督責任を問われることにもなりかねません。

 UNHCRの場合、難民の中には定住を切望するあまり、職員にわいろを贈ることがありました。それで処罰された職員が不服に思うと、国連の行政裁判所に持ち込みます。訴えた職員とは、辞める条件などを巡っていろいろ話し合いを重ねなければなりません。私の下の副高等弁務官が行政能力にたけた人で、助けられました。

 《UNHCRは、ナイロビの職員が難民の移住の便宜と引き換えにわいろを受け取った事件などを公表している。また、緒方の二代前のジャン・ピエール・オッケは公金の不正流用で、緒方の後任のルドルフス・ルベルスはセクハラ疑惑で辞任するなど、トップの不祥事も深刻な問題だ》

 高等弁務官を10年務めて、私、変わったでしょうね。大分乱暴になったかもしれません。会議外交と違って、決断しなければならない場面がたくさんありました。難民の現場のインパクトは強烈で、決断する力はやはり現場で鍛えられましたね。何かあると、「その問題、解決しましょう」が口癖になりました。解決しないと落ち着かなくて。

 2001年春、米フォード財団の常任研究員に招かれ、ニューヨークに移りました。UNHCR時代の回顧録をまとめるためです。同じころ、「人間の安全保障委員会」の共同議長を、ケンブリッジ大学のアマーティア・セン教授(ノーベル経済学賞受賞者)と引き受けることになりました。

 《「人間の安全保障」は、人間一人一人に注目した国際協力の新しい考え方。1998年、小渕恵三元首相が日本外交の柱と位置づけ、日本のイニシアチブで国連に「人間の安全保障基金」が創設された》

 安全というのは、従来国家が預かっていた。でも、紛争下の難民問題を扱っていて、国家は非常時に頼りにならないどころか、有害な場合さえあるという現実に直面しました。それで、安全保障とは、最も弱い人を保護し、同時に、彼ら自身の能力を高めることにほかならないと考えたのです。(敬称略)
 
 写真=国連難民高等弁務官を退任する時、アナン事務総長(左から2人目)らに送られて(UNHCR提供)


2005. 03. 31
(16)アフガン復興、世界が注目


 ちょうどオフィスに出勤する前だったと思います。マンハッタンのアパートの窓から、私も見たんです。飛行機が世界貿易センタービルに突っ込んで燃え上がるところを……。

 2001年の「9・11(米同時テロ)」を契機に、米国はアフガニスタンで軍事行動を起こし、国際社会の目が集中します。それまでアフガンは、「見捨てられた国」だったのです。

 国連難民高等弁務官時代、アフガン難民は600万人を超え、パキスタンやイランにいた難民への資金支援をお願いして回ったのですが、ほとんど反応がありませんでした。アフガンは、私にとってやり残した仕事でした。そんな話が東京に伝わって、その年の11月、政府から「アフガン支援政府代表」の話をいただき、快諾しました。

 翌年1月、東京でアフガン復興支援会議の開催が決まり、直前に現地を訪ねた時のことです。西部のヘラートでは、タリバン時代には教育を受けられなかった女の子たちが、学校に戻っていました。そこにいた教育委員会の人がすっと立ち上がって、「1年前、女子のための私塾に案内したのは私です」と言うんです。

 当時のタリバン政権の知事は、女の子が勉強したがっているのを知って、私塾の存在を暗に認めていました。私が「現場を見たい」と言い出して、場所を知らない知事は困ってしまったらしい。助け舟を出したのが、軍閥出身の現知事側にいた彼だったんですね。政権いかんにかかわらず、人間のつながりがあったことを知り、私は温かい気持ちになりました。

 《支援会議は、45億ドル以上の復興資金を集めて大成功。「世界のオガタ」の指導力をアピールした。一方、同会議で、外務省がNGO(民間活動団体)2団体の参加を一時拒否した問題が浮上した。当時、同省に影響力をもつとされる鈴木宗男衆院議員の関与を巡って、田中真紀子外相と野上義二外務次官の答弁が食い違い、国会が混乱。田中・野上両氏の更迭に発展した》

 ニューヨークに戻ると、福田康夫官房長官から、「外相をお願いしたい」と、何度か電話がありました。以前、小渕恵三首相からも外相就任の要請がありましたが、難民の仕事に追われていた時で、辞退しました。

 2度目の要請で、外務省の友人からも勧められ、あっさり断っていいものかと、私なりに悩みました。でも、大臣の仕事は、国会対策とか答弁とか、国内政治の手腕も求められます。主人は大反対でしたし、子どもたちも「もう十分働いたから辞退した方がいい」って。結局、お断りしたのは賢明だったと思っています。
 
 写真=アフガニスタン復興支援会議では、議長としてのさい配が高く評価された(2002年1月、東京で)


2005. 04. 01〜03 休載


2005. 04. 04
(17)JICA理事長で組織改革


 2003年の春、ニューヨークに、国際協力事業団(当時)の労働組合の代表が訪ねてきました。独立行政法人化を前に、組合員に「理想の理事長は誰か?」とアンケートをしたら、圧倒的に私の名前が多かったというんです。

 青年海外協力隊の活躍はあちこちで見ていましたが、事業団がどんな事業をしているのかは知りませんでした。「独立行政法人の意味もわからないし、人気投票で1位だからって仕事を引き受けるわけにはいきません」と申しましたら、数週間後、関連書類を山ほど抱えて再び現れたんです。その夏、東京に戻ると、川口順子外相から正式にお話がありました。

 《1974年に設立された国際協力事業団は、政府開発援助(ODA)の技術協力実施機関として、途上国への専門家派遣などを行ってきた。2003年10月、国際協力機構(JICA)と名称を変更。最近、紛争などで疲弊した国の平和構築にも力を入れている。トップには外務省幹部が天下りするのが慣例だった》

 国連で10年やったので、マネジメントはもうやりたくないというのが本音でした。でも、外相のお話を2度も断っていましたから、もう逃げられないって、ちょっと弱気が出たんでしょうね。それと、「組織として変わるのは今しかない」という、多くの職員の心意気に動かされたところもありました。

 約1300人の職員の7割が国内にいることには驚きました。現場に出て初めて何が必要かが見えてくる。それは、難民の仕事の経験から言えることです。それで、就任早々から相当乱暴な注文をしました。現地事務所の裁量を増やし、迅速な対応をすること、国内と外の職員比率をいずれ1対1にすること――。

 新しく「アフリカ部」も設けました。紛争や飢餓の問題が集中しているアフリカには、ニーズがたくさんあるはず。アフリカ向けの予算は全体の14%前後ですが、20%くらいまで上げたいと思います。

 《日本はアフリカ支援をリードし、開発をテーマに国際会議も主催してきたが、ここ数年、アフリカ向けODAはピーク時の4割程度に減っている。国連安全保障理事会の常任理事国入りを目指す日本にとって、国連加盟国の約4分の1を占めるアフリカ諸国の支持は不可欠で、支援策の充実が叫ばれている》

 日本社会には伝統的に、人の役に立ちたいという思いやりの心がある。国際協力は日本の文化でしょう。若い世代にも国際協力の分野で働きたい人が増えているようで、様々な形で応援できればと思っています。
 
 写真=理事長として、早速JICAのアフリカでの給水事業を視察した(2004年、エチオピアで)


2005. 04. 05
(18)安保理に迫った内戦への対応


 昨年11月、私もメンバーだった国連改革を巡るハイレベル委員会の報告書がまとまりました。

 関心があったのはまず、安全保障理事会拡大などの機構改革の問題です。私は、日本は常任理事国になるべきだと思っています。国連予算の19・5%も負担していて、これは米国に次いで2番目です。かなりまじめに紛争解決や開発問題に取り組んできた大国なのだから、その責任を果たすのはいいことでしょう。

 《ハイレベル委員会は、アナン事務総長が2003年11月、安保理改革や、テロなど新たな脅威への対応に関する提言を求めて設置した諮問機関。有識者16人で構成された。委員会報告に基づき、事務総長は3月20日、国連改革案を公表、安保理拡大問題について9月までに決定するように加盟各国に勧告している。日本など新安保理常任理事国有力候補国にとって、この半年が勝負どころだ》

 私が委員会で強く訴えたもう一つは、国内紛争と軍事力の行使の部分です。国連憲章によれば、国内の問題は主権国家の専管事項で、国連の介入を認めていなかった。でも、ルワンダの大量虐殺やボスニア内戦など、もはや放っておけない国内紛争が相次いで起きてきたんです。

 初めて安保理に出席したのは1992年でした。それから何回も、内戦への対応を訴えました。あれだけ安保理に迫ったのは、人道機関の長では私ぐらいじゃないですか。

 人道援助というと、ビスケットを配っているようなイメージがあるかもしれませんが、それは違います。現場では、生命の危険にさらされている人が保護を求めて頼って来ます。政治交渉や地元の警察力の強化に加えて、国連の平和維持活動で介入してもらいたい場面もあるのです。

 私は、大きな希望とか野心を持ったことがない人間ですが、その時に与えられた課題には一生懸命取り組んできたつもりです。目下の課題は、国際協力機構(JICA)の改革です。途上国の現場のニーズに応えようと、職員全員が燃えている時、風通しのいい組織にしていくのが、理事長の私の仕事でしょう。国連とは三十数年間かかわっていますから、政策的なアドバイスを求められれば、どんどん提言していきます。

 国連事務総長就任の話が復活したらですって? 96年ごろ、そんなことを言って下さる方もいましたが、冗談じゃあ、ありません。自分の実力の限度は多少心得ておりますから。(おわり)

 この連載は、解説部 永峰好美が担当しました。

     ◇

 次回は「ドラマ 倉本聰」です。
 
 写真=国連難民高等弁務官時代の回顧録を米国で出版、講演後にサインを頼まれて(3月、ニューヨーク大で)


topへ

[時代の証言者]国際舞台・緒方貞子 (読売:05/03/02〜04/05朝刊)  - TransNews